シン•ウルトラマンについて宗教的な面も含めての考察

シン・ウルトラマンがオリジナルのメフィラス星人の回で語られた人間とウルトラマンの両方であるハヤタという存在を深掘りして全話を繋げたリメイク作品なのは自明だとして、

オリジナルの「禁じられた言葉」はキリスト教的な悪魔は契約しないと無力なことを逆手にとった話で、地球を獲るにも契約の手順がないと動けない縛りがある存在が無理矢理に子どもを契約相手に指名して言質を得ようとするのが大筋。

だから先制攻撃もしないし、フジ隊員の巨大化もサトル少年の姉だから脅しの意味があり、たとえウルトラマンに勝ったとしても地球が自分のものにはならないのだから戦いに意味はない。
サトルくんに負けたのは負け惜しみではなく本心だったのだ。

戦闘力と勝利がイコールではない世界観を示したという意味ではシリーズ通して珍しいエピソードだった。
脚本の金城哲夫氏本人がクリスチャンだったかは不明なところがあるけれど家庭や学校を通じてキリスト教の知識は身につけていたのは間違いないだろう。

ウルトラマンが事故でハヤタを死なせてしまった上に事後承諾で超人の力を与えてしまった過去に基づいて、メフィラスがウルトラマンに「君は契約も結んでいないが、それでいいのか?」と問うたならウルトラマンは言葉に詰まったかもしれない。
ウルトラマンの絶対的善が回を重ねるごとに強固になるのを金城氏が憂いて、メフィラスの回でそもそもなぜハヤタと命を共有することになったのかを突きつけ、その神性が揺らぐのを望んでいたとしたなら、ハヤタが誇らしげに「両方」と答えたのは金城氏にはどう映ったのだろう。
いや、自分の中で揺らぎつつあるウルトラマンの神性を強固にするためにあえてメフィラスをぶつけた可能性もある。

悪魔と半神半人の対峙なんて本来なら神を信じるか否かの問答以外は起こらないのだ。

それをテーマにしたら「またエヴァンゲリオンかよ」と言われるのを避けて、映画では宗教的契約をビジネスに置き換えたのだろう。

しかしサトルくんの存在を消したことでメフィラスの契約相手がウルトラマンとなり、内容も地球人という資源を管理するビジネスに目を瞑るよう交渉するといったサイドワークに成り果てた。

シン・ウルトラマンは傑作だと思うし楽しめたが、ウルトラマンのスタイルを原初に近づけた割には「ウルトラマン」とは異質に感じたのも否めない。
公認とはいえ、やはり庵野のものであって円谷のものではなかったのだ。

けっこう忘れているのでまた観て追記する。
2023.01/08


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