トイレを借りに入ったお店でとんでもない学びを得た話

先日友人と飲みに行って
とても面白い発見があった。

以前に学んだことが改めて理解が深まったので記しておく。


会社の飲み会終わりに
友人が「トイレに行きたい!」って言い出した。

近くにトイレを貸してもらえる施設も
なさそうだったことから
目の前にたまたまあったバーに入ることに。

トイレだけだと悪いので、
当然ちょっと飲むという流れになる。

そこでメニューを見ながら
ビールとかカクテルとかモヒートとか
各自がそれっぽいのを決め、注文の為に店のお兄さんを呼ぶ。

それぞれが飲み物を伝え終えると
お店のお兄さんが聞いてきた。

「葉巻はよろしいですか?」

僕らは顔を見合わせて
(えっ、葉巻?葉巻どころかタバコも吸わないけど・・・)
みたいになってとりあえず
「いえ、大丈夫です」
みたいに答えた。

ここではあえて
そのやり取りを抽出して書き起こしてるので
いかにも注目しがちだけど、
この「葉巻」という単語について
その場では誰も気にしてなかった。

友人Aを除いて。


お店のイケメンお兄さんが去って
さあ、なんか話そうかという時。
その後の流れを根本的に変える一言をAが発した。

「さっきさ、“葉巻は?”って聞かれたよね」

「え?うん」
と僕ら。

「わざわざ聞くって事は、このお店って
“葉巻を注文して当たり前”のお店なんじゃない?」

そう。

トイレのためにたまたま入ったバーは
ただのバーじゃなく、お酒と一緒に葉巻を楽しむバー、
シガーバーだった。
※シガー = 葉巻のこと


その友人の好奇心に火がつき、せっかくだからと
初心者でも吸いやすい葉巻と葉巻の吸い方を教えてもらうことに。

さっきのイケメンお兄さんに連れられて
倉庫みたいなところに行った。

山のように積まれている葉巻を見ながら
それぞれの特徴とかを教えてもらった。

そこからは未体験ドキドキワクワクの連続だった。

どれが初心者向けかとかブランドごとにどう違うのかとか
葉巻の管理方法、吸い方、タバコとの違い、原産地、歴史とか
いろいろ楽しく学んだ。

初心者向けの一本を選び、席に戻ると
お兄さんがハサミで葉巻の頭を切り、
バーナーで着火する。

シガーバーだと知らずに来店した
ぼくらみたいなシロートにも丁寧に
葉巻の吸い方を教えてくれた。

おかげで僕らは
「これで合ってるのかなあ」としっくりこないながらも
葉巻を吸うことになった。

その中で、タバコと葉巻は何がどう違うのかとか
葉巻の歴史的な位置づけや楽しみ方なんかも知ることになり、
とても楽しい時間を過ごすことができた。

僕個人としては
「メタルギアソリッド3のHALO降下前のスネークじゃん!」
みたいなことばっか考えてた。
男っていつまでも子供だよね 笑


なんでこんな話をしたのか。
それは大きな大きな気づきを得たからだ。


この話で僕が改めて重要だと思ったのが
仏教の釈迦が教えている「縁起」の概念。

縁起。

すべては"”によって"こっている。

縁というのは、つまりは関係性のこと。

意思や根性や気合い、思考、選択じゃない。
すべての事は「関係性」の中で起こっていて、
自分で選択することはできない。

より厳密に言うならば、
自分が選択をしているように見えても、
それは選ばされているのであって
限定された選択肢の中から選んでいるに過ぎない。

与えられている以外の選択肢を選ぶときには
どうしても新しい人間関係の力を借りることが必要になる。

僕はタバコも葉巻を吸ったこともないし、
吸おうと思ったこともない。

せいぜい仕事終わりの過ごし方と言ったら
誘われてお酒を飲みに行くかそのまま家に帰るか。
この2択だ。

そういう人間は
「シガーバーに行って葉巻を注文する、
 そしてお酒と共に葉巻を楽しむ」
なんてことは思いつきもしないわけだ。

だから僕は自分の人生の選択肢として、
仕事終わりにシガーバーに行って葉巻を楽しむというものは
絶対にあり得なかった。

これはぼく自身がいかに選択しようとしても、
そもそも選択肢としてないのだから選べるわけがない。

それはぼく自身が「葉巻」という単語を聞いたときに
「え?いえ、大丈夫です」
と答えて終わりだったことからも明らか。

そこに、
「さっきのお兄さん、葉巻って言ったよね。頼んでみようよ」
というぼくからは絶対に出ない一言があっただけで
その後の展開が一変した。


自分の人生の意思決定で
選択肢を自分の力で選んだというふうに思っているけれども
それは酒を飲むか帰宅するかという
極めて限られた選択肢の中で選んでいるに過ぎない。

そこに「お酒と葉巻を楽しみに行く」
という選択肢はそもそもない。

それを与えてくれるのは
全く異なる価値観の人間でしかない。


わかりやすい話をするならば
僕たちは毎朝
「朝食を何にするか」を自分で選択していると思い込んでいる。

例えば「ご飯にする」か「パンにする」かとか。

「今日は・・・うーん、ご飯にしよう!」と言って
自分で人生を選んでいるつもりになっている。

ただこれは極めて限られた、
与えられた選択肢の中から選択しているに過ぎない。

間違ってもボルシチにするかパエリアにするかという
そういう選択肢が頭に思い浮かぶ事はない。

ただご飯にしてもパンにしてもパエリアにしても
実際は人生がそう大きく大きく変わる事はないだろう。

これは最もわかりやすいと思ったから
挙げた例えだ。


もっと直接的に人生を変える例で言えば
高校を出る時期になって進路を考える時なんかが典型だ。

その時にも自分で選択しているように思い込んでいる。
例えば「大学Aにするか大学Bにするか」みたいな。

こういう考え方をしている間は人生を変える事は無い。

それは周囲の人間関係から与えられた選択肢の中で
選んでいるに過ぎないからだ。

教師や親のことだ。

親や教師の頭の中には
「大学に進学するか就職するか」程度の選択肢しかない。

間違っても高校を出るタイミングで
「投資家になる」とか「経営者になる」
っていう選択肢が出てくる事は無い。

だから本質的に人生を変えたいんだったら、
自分の考えられる選択肢の中で何が最適かを考えるんじゃなくて
「浮かんでくる選択肢そのもの」を変えなければならない。

浮かんでくる選択肢の方を変えるのは
自分だけの力では絶対に不可能だ。

これが、人生を変えるには
関係性を変えるしかないという意味だ。


実際に、僕に新しい選択肢を与えてくれた友人は
僕が今月転職して入った会社の同僚だ。

つまり、関係性が変わったから得られた選択肢だという事だ。

大学Aか大学Bで悩んで選んだところで大して人生は変わらない。
それは親や教師が考えている道をなぞるだけになる。

経営者や投資家として華々しく活躍するという
未来を得る可能性はゼロだ。

経営者や投資家という選択肢を与えてくれる人間と縁があった時のみ
自分の人生の選択肢の中にそれらが入ってくる。

このように、本気で人生を変えたいならば
「自分の取り得る選択肢の中で何が最適か」ではなくて
「今与えられている選択肢とは全く違う選択肢を与えてくれる、
 そういう人たちとの関係性をいかに築くか」
ということが重要になってくる。


その全く新しい選択肢を与えてくれるのは
全く新しい価値観を持った人間だということ。

それが釈迦が悟ったこの世の真理「縁起」。
全ては縁によって起こっている。

個人の知識や選択、努力や根性ではなく、
全ては周囲との関係性によって起こる。

だからやっぱり僕は宗教、
とりわけ仏教を学んで良かったなと思う。

縁起。
この言葉で言えば1秒の単語。
これを知っている人はたくさんいる。

「釈迦が2500年前に菩提樹の下で悟った真理は縁起である」
ということを知っている人はゴマンといる。

でもそのとてつもなく深い本質を
理解し、そして人生の意思決定において重視している人
ははなはだ少ないように思える。


もしあなたが
「自分の人生は自分で選択をしていて、
 自分の頭で考えて選んでいる」
というふうに思っているとしたら、

「与えられた選択肢の中で自分が判断しようと思っていないか」
というのを考えてみるといいかもしれない。


自分は朝食をご飯にするのかパンにするのかで悩んでいる。
大学Aに行こうか大学Bに行こうか悩んでいる。

でもそれは与えられた選択肢であって、
誰も予想のつかないような結果を得ることはできない。

誰も予想もつかないような結果を得るためには
周囲の人間が誰も予想していないような選択が必要になる。

「シガーバーに行ってお酒と葉巻を楽しむか」とか
「ボルシチにするかパエリアにするか」とか
「投資家になるのか経営者になるのか」とか
もしくは「パーマネントトラベラーになるか」というのも
親や教師からは得られない選択肢だろう。

そういう、今までの関係性の中では
絶対に出てこなかったであろう選択肢を
目の前に提示されたその瞬間。

戸惑いがありつつもそれを選んでみるというふうに判断ができたときに
明らかに人生は変わっていく。
未体験だったことに踏み出すことのワクワク感を得ることができる。


僕は未経験に踏み出す好奇心とワクワクを一緒に体験できるような
そんな友人たちと信頼できる人間関係を築いていきたい。


僕はお酒とかあんまり好きじゃないし、
モヒートを飲むんだったらオレンジジュースを飲みたかったんだけど。
まぁ、たまにはね 笑

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