25年、男をやってもなくならない僕のGID問題
僕はトランスセクシャルと呼ばれていた。今はそんな区別はないのかな?
上手に思いが書けないんだけど、僕は自分自身が受け入れられてない。
他人に理解してもらいたいのではなく、自分がなぜこんな気持ちになるのか、女性の体で産まれた事を自分がよくわかっていながら、染色体検査や内性器検査で正常だとわかったとき、すごく落ち込んだ事も、そうやって落ち込む事も「異常」だと思っている。
手術や戸籍変更でずいぶん生きやすくなり、この時代に産まれてこれた事に感謝もしている。
だが、根っこでは変わらない気持ちがある。
この気持ちにつながっているのが希死念慮だ。
この違和感と呼ばれるものはこの世からさよならしなければなくならないって事を心の中に蓋をしていた思いが何かのきっかけで溢れてしまいそうになることもある。
今、SNSでトランスへの強い非難もあるが、そんなのはどうでも良い。僕は外からの攻撃より、自分自身の方が怖い。だから、このnoteを書きながら、自分のジェンダーに対する拘りや偏見を和らげたいと思って始めた。
僕は両親や妻にも「辛い」と話したことがない。両親には治療に対して認めてもらうとかじゃなく「治療経過」を話していただけで、思いはカウンセラーや当事者以外には話した事がない。
ある日妻から
「死ぬのは怖くないけど、⚪︎⚪︎くんと別れるのは嫌だなー」と言われた。
ハッとした。
僕が死んだ後が容易に想像できた。それを感じた時に、自分の事より家族や周りの人たちへの恩返しとしての生き方を真剣に考えるようになった。
若い時は自分の事だけ考えて突っ走っていた。その時にはわからなかった感情を経験と共に知り、守りたい人達が僕を必要としてくれている事は僕のGID問題より大きな存在になった。
積み重ねてきた年月は思ったより大きくて、だからこそ一日一日を大切にすべきだと感じる。
男として生きて来た年数の方が遥かに長いのに、ずっとこの気持ちに縛られてるけど、年齢を重ね思うことは、解決しなくてもやり過ごす事ができる所まで落ち着いたと言える事。
なくならないけど、それより大事な事が増えるんだと、今そう思っている。
僕がやるべき事が終わった後は、またそんな気持ちがあらわれるのかもしれないけど、その時はまたその時に違う感情が生まれるかもしれない。
そうやって僕のGID問題は共存するんだろう。
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