食事が全て面倒になる鬱ごはん感想

※過去記事

 施川ユウキの漫画、『鬱ごはん』の感想です。

 主人公の鬱野たけしは就職浪人の無職(22。最新巻では31になってる)。親からの仕送りも減りつつあって孤独が深まる彼も、死を避けるためには食事をするしかない。彼にとって食事は生命維持活動であり、美味しいという感覚はグルタミン酸のもたらす神経反応にすぎない。彼は、ある日は鬱々とファーストフード店に足を運び、ある日は足りない道具を雑に補って自炊をし、またある日は身分も弁えずに出前を取る。そしてそのがさつさと周囲への肩身の狭さから、ただでさえ鬱屈とした食事をますます台無しにするアクシデントが引き起こされたりする。
 勿論食事の九割以上はぼっち飯で、上記のように据え膳はお粗末の一言。そもそも大学時代ロクに友達も作らず自堕落に過ごして就職浪人になった鬱野が、格調高い飲食店に一人で入る心意気などあろうはずもない。しまいには時々頭の中でイマジナリーフレンドの黒猫が、「だからお前はダメなんや」と関西弁でなじってくる始末。そんな、食欲など一ミリも刺激されないグルメ漫画です。
 「食事の間だけでなく、人生が常に孤独な人間のグルメ」と言った感じ。面白いのかって思うでしょう。面白いんだな。少なくとも僕には。
 施川ユウキの作品を初めて読んだのは、読書しない読書漫画である『バーナード嬢曰く。』だったのだけれど、最近はどんどん切れ味が増していると思う。この鬱ごはんも、三巻になると独白の冴えが凄まじい。「食事中黙らせるために神は喋る器官で食物を摂取するように人の体を造った。食レポも会食もきっと神の意志に反する」とか。

※これ書いてる途中に作者のインタビュー記事が出てきちゃって、凄く良くできているのでとりあえずそっちをおすすめしておきます。


・どうして人は孤独に飯を食う時にモノローグを始めてしまうのか
 人は、テレビやスマホや友人を用いて気を紛らわせていないと、食事に対して感想を抱くことは避けられない。たとえそれが自分が作った目玉焼きだったとしても、「ああ潰れているな」とか「やっぱり醤油より塩だよな」とか何かしら感想を言わなくてはいけない気になってしまう。
 本編でも言われているが、複数人で食事をすることは社会的な営みであるのに対し、一人での食事は単なる動物の生存行為になるため、実はこの二つの行為には明確な身分差がある。だから孤独に食事をしようとする者は、自分が身分が低い行いをしていることを認めたくないから、社会と繋がったまま食事を完遂するため「飯や店と対話」しているんだ、というのが僕の今のところの結論である。
 そして飯との対話にもコミュ力と呼ばれるステータスが有り、ぼっちの人間ほど、そして食べ慣れた物に対してほど深い問いかけができる。その点で鬱野、ひいては作者は適当な食べ物に対するコミュニケーションにかなり練達している。
 経験がある人には、このモノローグを追いかけることはとても面白い。一方で、一人で食べることが少ない人や、悩み事や考え事に事欠かない人にとっては、意味の分からない独白をしているように見えるだろう。彼らにとっては就職浪人の鬱野が履歴書も書かずにドーナツ屋のオーダーに迷ったり鯛焼き屋で『バリ』を貰うにはどうしたらいいか考えているその思考回路がきっと理解できない。

・食事の負の側面って食事中は忘れがちだよね
 食べ物は、食べないでいるとやがて廃棄物になるし、食べて暫くすると排泄物になる。グルメ漫画の多くではこの側面が描かれない(描かれてたまるか)。
 本編の主人公、鬱野はその側面にまでしばしば踏み込む。というか、本人が食事に対して無頓着であるため、気がついた時にはその領域にまで踏み入れてしまっている。仕送りの缶詰は賞味期限が切れているし外食先で人目を避けようと慌てた結果ドリンクを倒す。鬱野は非常に後ろ向きの物の考え方をするから、たった今咀嚼している食べ物のありようにまで思いを馳せたりもする。
 実は食べ物とゴミの境界はすぐ近くにあるのだ、そのことをまざまざと思い出させてくれて、まあ食欲がみるみる減退する。

・鬱野はネガティブなナルシスト
 この作品には作者の実体験が多く含まれるとのことだ。ところが彼はこの鬱々とした食卓の毎日を自分で侘しいとかみすぼらしいとは思っていない。僕もそう思う。
 確かに贅沢の欠片もなければ、(自業自得気味とはいえ)不運に見舞われ、惨めな目にたびたび会う。けれどもそんな世間的な評価は、自分が幸福に感じるかどうかとは本来関係が無いものだ。「自分は良い生活を送る資格があり、質の高い生活が幸福である」という一般的な人には理解しがたいだろうが、僕は鬱野がどれだけ抑揚のない自責の念に駆られ、履歴書を前に動悸を高めていても、悲惨だとは感じない。一人で食事をしている時に、ふと思い浮かぶモノローグを自画自賛する行為がどれほど楽しいことなのか僕は知っている。
 ただ、こういう人にとって、身の回りを取り持つ人間が少なくなっていくと、欲望と使命感が損なわれ、何をする気力も湧いてこなくなる。「困るのは自分だけ」という割り切りは、もともと華々しさを追い求めない人種にとって毒だ。
 鬱野は、孤独に順応することが出来た人間だ。一人で過ごしていることに慣れて、それが居心地良いものだと気付いてしまったから、一人で遊ぶ手段として、身の回りの色々な物――例えば食事など――について自分独自(と自分で思い込んでいる)の考えを巡らせ、それを小粋な言い回しにして楽しんでいる。
 僕は、僕を含むこういう人達のことを「ネガティブなナルシスト」と呼んでいる。(最初にこう呼んだのは、「人生を『半分』降りる」などの著作で知られる哲学教授の中島義道だ)。自分自身がみっともないこと、あるいはみっともなさを自己批判することに陶酔している。これはマゾヒズムとは全く別種の心理現象だ。
 僕はこの漫画をとても面白いと思うのだけれど、その理由は、鬱野のモノローグを読むことで、孤独さに快適を感じるのは自分一人ではないと安心できること、彼の独白に対して共感できるところが多々あるからだと思っている。不思議なものだ。こういう独白をする奴は得てしてプライドが高くて、自分の思考に唯一性と高い価値を見いだそうとするのに、いざ共感できる仲間を目にすると何故か舞い上がるのである。友達になれそうな人を見つけた時みたいに。
 ここからは僕の仮説だが、僕や鬱野がネガティブなナルシストでいるのは、自分が「まだ何者でも無い(=まだ何者にでも慣れるかも知れない。タイムアップの可能性なんて知ったことか)」ことに安心しているからだと思っている。
 だから鬱野は、発行から十年弱経った今でも就職活動ごっこを続けながら無気力に食事をして命を繋ぐのだろう。困難に立ち向かうのではなく、直近のどうでも良い悩みを作り出してそれにかまけたフリをして時間を浪費する、そのスタンスが理解できない人にはきっと『鬱ごはん』はできない。

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