夜泳ぐ魚【短いお話】
つむった瞼の裏側で、赤や黄や橙の細い道が新しく生まれたり死んだりしている。
目を開けると、父さまとわたしの影は白く乾いた埃っぽい土の上にギュッと背を縮ませてうんと黒い色をしていた。
真っ青な空にはモクモクの白い夏雲がじっと貼り付いている。
絵みたい。
(メクラヨコエビの話をしてあげよう。メクラヨコエビはね、太陽の光が届かないほど深くて暗い水の底で永い間暮らしているうちに、視力が要らなくなったんだ。触角が目の代わりをするようになったんだよ。エサのありかや危険な場所も、触覚で見分けて生きているのさ。見ることができるのは目だけじゃないんだね。
だから父さまも眼鏡はもういらない)
父さまのハダカの目が、道の向こうにグンと広がっているアスパラ畑の緑色を吸い込んで喜んでいた。
(父さまは今度、海で暮らすことになったよ。父さまが色々世話を焼かなくちゃいけない仕事が有るらしいんだ。
磯巾着や珊瑚のお世話かもしれない。
嵐の夜のインド洋で亡くなった人達に歌をうたってあげることかもしれない。
海の泡になってただただユラユラと波に漂っていることかもしれない。
どんなことでも父さまには喜びなんだ)
父さまのしあわせ。
開襟シャツの白が、強い日差しとぶつかってピカピカ眩しい。
父さまのしあわせ。
だけど。
だけど。
粘土の丸い玉が、胸のここにつかえているから、うまく息ができない。
(父さま。父さまが今度行くところはずいぶん遠いのですね)
(うん。そうだね)
(月の光はね、太陽の光よりもずっと深い海の底まで届くんだ。不思議だよね。だからきっと、満月の夜は父さまがいる海の底にもおぼろ月夜の明るさの電灯がともるよ。そうしたら、君と母さまに手紙を書くよ。君が夜見る夢ね、その夢の中で手紙を受け取っておくれ)
父さまとはもう会えないのですね。
(もう、会えないのですね)
(うん、もう会えない)
ミンミン蝉が暗い森で鳴いていた。
足下にたまった黒い影の縁のところがチリチリと焦げていた。
(君はまだ小さいから、少し心配です。
うつむいてばかりいないで顔をあげてご覧なさい。背骨を真っすぐにしてご覧なさい。三月の雲が、良い匂いの風に乗ってゆるゆると流れているでしょう)
嘘だと思った。だって今は八月だから。
それでも、するりと吸い込んでみた良い匂いの風は林檎の花の香りに少し似ていると思った。甘くて酸っぱい。
(雲は、名前を付けてほしいと君に言うかもしれないよ)
胸が騒いだ。
ワクワクした。雲がそんなことを言うなんて!
どんな名前が良いだろう。
白い雲が、ぱぁっと輝いて喜ぶような名前がいい。
白に赤い横線二本のバスが近づいてきていた。
(母さまと仲良くね。さようなら)
(さようなら)
アスパラ畑とその向こうの森の緑は、両手を腰に当ててこちらを見送っている笑顔の父さまと一緒にコトンと一度揺れた。バスは動き出した。
スカートのポケットから父さまの眼鏡を出してかけてみた。
分厚いレンズの向こう側に父さまの笑顔がなんだかおかしなふうに歪んで見えて、少しずつ小さくなってゆく。
あ。
今、透明な大きな魚のしっぽがポシャンと跳ねた。
1994.2.19
歌手のあがた森魚さんの世界に魅了されて書いたものです。
今読むと、影響を受けたどころか、まんまです。。。🙏
「バンドネオンの豹」というアルバムの「パール・デコレーションの庭」という曲です。
聴いたことない方は是非是非聴いてください。