ありがとうの語源は有り難い
当たり前が打ち破られたところにあるもの
『青い鳥』という物語があります。
兄チルチルと妹のミチルが青い色をした鳥を探しに旅に出るというストーリーです。この兄妹はいろんな不思議な国を旅しますが求める青い鳥には出会えず、最終的には落胆して自分たちの家に戻ってきます。そこで、ふと家の鳥かごを見てみると、なんと飼っていた白い鳥が青くなっていることに気づき「青い鳥はこんなところにいたのか」と、驚き喜ぶというお話です。
このお話のメッセージは「実は幸せというものは私たちの足元にあるんだよ」ということでしょう。またチルチルとミチルが自分の家の青い鳥に気づいた瞬間に彼らの「当たり前が打ち破られた」とも言えるでしょう。
その後の彼らについては描かれませんが、きっと自分たちの生活を見つめ直し、感謝しながら心豊かに生きていったことは想像にかたくありません。
さて、一方で私たちはどうでしょうか?
この令和の時代、私たちは便利な家電や電子機器があって当たり前の中で暮らしています。でも、それらの当たり前は本当に当たり前なのでしょうか?
たとえば、スマートフォン。
現代では所持するのが当たり前となった時代ですが、その技術は「当たり前でないもの」の積み重ねによるものです。よくよく考えてみればスマートフォンは電話とパソコンと動画プレーヤーとカメラがひとつになってポケットに収まっているような、とんでもないものです。
そんな当たり前でないものに私たちの生活は支えられているのです。
そのように、当たり前と思っている身の回りのものについてじっくり考えてみると、実は「当たり前ではないことだらけ」だということに気づかされます。
当たり前でないことに気付かされると「おかげで便利な生活が送れているのだな」と、感謝の気持ちが生まれてきます。
阿弥陀さまにいただいている「当たり前でないもの」とは?
ところで、阿弥陀さま (仏さま) になぜ手を合わすのか知っていますか?
お願いごとがあるから?
いいえ。そうではありません。
阿弥陀さまに「感謝をするから」手を合わすのです。
感謝をするということは阿弥陀さまからすでに「当たり前ではない何か」をしてもらっており、そのことに対して手を合わせて感謝しているということになります。
阿弥陀さまの私に対する「当たり前ではない何か」のひとつとして、阿弥陀さまが「なもあみだぶつ」という「声の仏さま」となってくださっていることが挙げられます。
声の仏さまとは「なもあみだぶつ」というお念仏のことです。お念仏は声に出せば音となって私の耳に届きます。この「なもあみだぶつ」という音そのものが仏さまなのです。
私たちには今まで私が積み上げてきた「当たり前」が音を立てて崩れていく瞬間が必ず訪れます。そんな時、私たちの今までの当たり前の価値観は何も役に立ちません。
そんな時であってもたった一人、私のことをぎゅっと抱きしめ「大丈夫、心配しなくていいよ」とはたらいてくださるお方が阿弥陀さまです。
阿弥陀さまは声の仏さまですから、私がなもあみだぶつと称えるところにあらわれてくださいます。それは、私が辛いときも苦しい時も、いつもどんな時でもご一緒だということです。
いつの日か今までの当たり前を必ず手放さざるを得ない私たち。そんな私を必ず救うという阿弥陀さまに手を合わせて感謝したいものです。
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