お浄土は必ず再び会える世界
別れの悲しさ
3月は冬から春へと季節のバトンが渡されていくわくわくする時季です。
寒さがやわらいでくると木々のつぼみが目立つようになり春を待ちわびていたかのように花が咲き誇ります。その様子はまるで生命が躍動しているかのようにも感じます。
一方で子どもたちが通う学校では卒園式や卒業式がおこなわれます。
毎日のように会っていた仲のいい友達とも別々の道を歩み始めます。そういった意味で3月は「別れの季節」でもあると言えるでしょう。
私自身の卒業式の記憶を思い返してみるとおぼろげではありますが、晴れ晴れしい気分とともに寂しい気持ちがあったことが思い出されます。
あの時、別々の道を歩む友たちと別れる際にいったいどんな言葉を口にしたかは忘れてしまいましたが、なにかしらの別れの言葉を口にしたのだろうと思います。
ところで、別れの言葉といえば「さようなら(さよなら)」がありますが、みなさんは「さよなら」という言葉にどんな印象を持ちますか?
人と別れる時に使う言葉なので、やはりどこか物悲しいなあと私は感じます。多くの方も同じ意見なのではないでしょうか?
では、そもそも「なぜ別れは悲しいのか?」ですが、今まで同じ時間を過ごしていた人が目の前からいなくなり寂しさを感じるという理由の他にもうひとつ「もうあの人とは会えないかもしれない」可能性があるからだと思います。
今まで言葉を交わし、思いを通じあわせていた人ともう二度と会うことがない。それはやはり、寂しく悲しいものでしょう。
僧侶という役割をさせてもらっていると別れの場面に遭遇することが多くあります。特に通夜葬儀の場面では多くの方が涙を流され、故人とのお別れをされます。
涙を流されるのはおのおの方が「この人とはもう会えないのだ」「この人と別れていかなくてはならないのだ」と心から実感されているからでしょう。
また会える世界
しかし、私達はほんとうに亡き人ともう会えないのでしょうか?少し考えてみたいと思います。
たしかに、この世の命が尽きれば今まで私が見て触れていた方の姿はなくなっていくわけですから、会えないと言えるでしょう。ですが、阿弥陀様のお救いの中ではどうでしょうか?
結論から言うと、また会える世界はこの阿弥陀様のお救いの中にこそあります。
仏となって出会っていくことを俱会一処(くえいっしょ)と言います。ところによってはお墓にも刻まれている言葉です。倶会一処とは『仏説阿弥陀経』に出てくる言葉で「倶(とも)に一つの処(ところ)で会う」という意味です。ひとつのところとはお浄土のことで、そこで私達は会えるというのです。
死を科学的に見た時にはすべて無になり、なにも残ることがありません。焼かれて灰になってしまう。「死んだらしまい」と言われる方はこのことを言っておられるのでしょう。ですが、阿弥陀様のお救いの中で私達のいのちを見たときには、死んで終わりではない世界が見えてきます。
仏教では命の終わりを死ぬという言葉で表現せず、「往生」と言います。往生とは「往(ゆ)き生まれる」ということで、お浄土に行って生まれるという意味です。
では、何に生まれるのか?と言えば、それは仏(ほとけ)といういのちに生まれるのです。つまり、私達はこの世の命が尽きたなら、仏という新しいいのちを恵まれていくわけです。これを仏様に成るというところから「成仏」(じょうぶつ)といいます。
仏になるのは亡くなった人だけの話ではなく、この私もやがていのちが尽きていくわけですから、私も仏になるということです。つまり、私達はお浄土でお互いに仏としてまた会えるということです。
またあいましょう!
今月の「お別れは さよならじゃない また遇(あ)いましょう」という言葉はそういう意味をあらわしています。
「またあいましょう」と言えるのは死んで終わりではないからです。私のいのちは続いていく。また会える世界があるからこそ「また遇う」と言えるのです。
今は亡きあの人に。残していかなくてはいけなかったあの子に。
また会える世界が阿弥陀様のお救いであります。お念仏とともに人生を歩み、ともに仏様にならせてもらいましょう。
最後までお読みいただきありがとうございました。それでは、またあいましょう!
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