不安と共に生きる
あなたは次のように緊張したり不安になってしまうことがあるでしょうか?
考えないようにしても気になってしまう
いざ本番を迎えると緊張で力が出せない
不安で動きたくなくなってしまう
私は不安になって緊張してしまうことが多くあります。子どもの頃からそうでした。
たとえば、小学校の運動会の徒競走。
横5列ほどに並び先頭の友人たちから順番にスタートしていきます。自分の番がくるまで待つわけですが、前に並ぶ人数が減りだんだんと自分の番が迫ってくる感じがとても嫌でした。
大きなピストルの音、火薬の匂い、同級生や保護者の声援…
いつもとは違う独特の雰囲気にのまれ緊張でえづきながら、不安で押しつぶされそうになっていました。
また中学校、高校と打ち込んだ部活動のバスケットボールでは練習の時はかなりの確率でシュートが決まるのに、いざ試合となると体がこわばってボールがリングに弾かれるばかりでした。なかなか練習の成果が発揮できずくやしい思いを抱えていたことを思い出します。
私の青春時代はこの緊張と共にあったといっても過言ではないでしょう。
実は今でもこの「緊張グセ」は治っておらず、仏様の話をする「法話」の際も不安になってしまいます。
緊張する要因は大きく2つあります。
1つは、仏様の話をするということ
2つには大勢の前で話をするということ
まず仏様のお話をすることは法話では最も大事な部分で、お釈迦様や親鸞様方が脈々と伝えられてきているものですから伝える内容を間違ってはいけないというプレッシャーがあります。
次に大勢の人の前で話をすることも不安の大きな要因です。
わかりやすく伝えるため、聞きやすくするため話す内容を考え、原稿を作って話す練習をしていくのですが、それでも話す前はとても緊張し、不安にさいなまれます。
さらに法話は実際に人前で話してみるまでどんな反応があるか分かりません。思っていたようなリアクションが得られないと焦ってしまうということもあります。
そのように悩みながらやっているのが私の法話の実情です。
それでも、最近は今の自分の状態でできることを精一杯やり切ることが大切だと思うようになってきました。理想の自分にたどりつけなくても、今できることを一生懸命することで確実に得られるものがあるからです。
今後、もっと法話の経験を重ねていけば緊張しなくなるのではという淡い期待を抱きつつも、不安を抱えたまま、不安と付き合っていくというのもいいのではないかという風にも考えています。
そんな不安と共に歩んでいっていいのではないかという思いにさせてくれたある本の言葉を紹介します。
浄土真宗の僧侶である森田真円先生の「ひらがな真宗」という本です。
病気の不安「病苦」を話されている部分で次のようにあります。
「わかっていても不安感が拭えない私のための教えであり、そのための阿弥陀さまであります。」
まさにこの言葉は私の指針となるものでした。
そうなんです。私が強くなる必要はないのです。
心強い存在がそばにいて、支えてくださっていることを感じることが大切なのです。
そこに大きな安心があるのではないでしょうか?
これからも条件がそろえば緊張したり、不安に押しつぶされそうになるでしょう。それでも、私の不安全部を抱きとめようとされる、たのもしい阿弥陀様を感じることで不安の感じ方に変化が生まれていくのです。
明日への不安を抱えながらも今日の一歩をしっかり踏み出したいものであります。
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