自信がなくなった時は仏様に聞いてみよう
できていない部分ばかり見てしまう私
仕事や家庭の中で「できていない部分」にフォーカスしてしまうことってありませんか?
先日、中学生の我が子の中間テストが返ってきました。
テストの結果がどうだったか話してくれるのですが、その中でケアレスミスが何箇所も見受けられました。ミスを指摘すると子どもの顔が少しむっとしてしまいました。
実力はあるのにもったいないなぁとの思いだったのですが、本人からすれば「がんばったのに、小言を言わなくても…」という思いだったのでしょう。
でもよく考えれば点数は充分に取れているのでもっと褒めてやるべきだったかなとも思います。
また私自身のことに関してもできていない部分にフォーカスしてしまうことがあります。
これからの時代のお寺はどうしたらいいのか、仏教を伝えるためにもっとわかりやすくできないだろうかという課題があり、日々お寺のことや仏教について学びを深めるため本を読んだり、情報をインプットしていますが、学んだ量に対してなかなか結果がついてこないと感じることが多いです。
そのため気持ちが焦ってしまうことがあります。
学びが深まっていくという成果はあるはずなのに、早く目に見える結果を求めてしまいネガティブな考えをしてしまうのです。
仏様の心を聞いてみよう
できている部分を自分で評価するのはなかなか大変です。社会では成果が求められますし、それがプレッシャーになることも多いです。また努力しても思ったような結果につながらないこともあります。
そんなときはできている部分にスポットを当てようと頭で思っていても、いつの間にかネガティブな考えでいっぱいになっていることもあるでしょう。
自分でポジティブに思えない時は仏様に心を預けてみるのもおすすめです。
中国の僧、善導大師のお言葉につぎのようにあります。
この言葉は阿弥陀様のお救いの姿をあらわすもので、端的に言うと私をどんなときでも常に気にかけてくださっているというお心をあらわしています。
「背中がない」というのは比喩表現で実際に背中がないというわけではありません。背中がないと思えるほど「私に向き続けてくださっている」ということです。
背中を見せてしまうということは、よその方を向いて私を見ていないということになります。そうではなくて、阿弥陀様は常にどんな時でも私に向き合ってくださっているのです。
つまり、この背中がない仏さまのお姿というのは私をとても大事に思ってくださっているという証拠だと言えます。
また常に正面を向いてくださっているというお姿はただ単に私を見ているというわけではなく、両手で私をぎゅっと抱きしめてくださっているとも言えます。目の前で苦しんでいる我が子をほうっておけないように、私のいのちを抱きしめてくださっているのです。
いわば私を「全肯定」してくださっている姿を背中がないと表現したと言えるでしょう。
このように阿弥陀様のお心をいただき「いつでも私のことを認めてくださる方に抱 (いだ) かれているのだ」と、感じるとおのずと自信が湧いてきて自分自身の「できている部分」にフォーカスが当たっていきます。
ただし、阿弥陀様はできている部分だけではなく、できていないと感じている部分もすべてひっくるめて私を肯定してくださっています。
「今、どんなあなたであっても、これからどうなっていこうとも、この阿弥陀は常にあなたのことを抱きしめていますよ」と、私の存在そのものが大事なのだと言ってくださるのです。
どんなときでもご一緒くださる阿弥陀様がいらっしゃるのですから時にはネガティブになっても、胸をはって歩んでいきたいですね。
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