ありがとうの反対語は「当然」
死なない方法とは?
長かった夏の終わりを告げる心地よい風に秋の訪れを感じます。清々しい日々は起床のときから正気がみなぎります。
一方で、心地よい目覚めはあっという間に終わってしまい、秋から冬になって冷たくなると今度はだんだんと朝の目覚めが嫌にもなっていきます。
「寒いから起きたくないなぁ。布団から出たくないなぁ」と思っても、朝起きて「今日も目覚めることができた。有難いなぁ!」って思う人はどれくらいいるでしょうか。
私自身も前者側です。しかし起きなければ、いや、目覚めなければ、大変なことになってしまいます。
私は浄土真宗のお寺が母体である高校に通っていました。その高校時代に宗教の授業で先生から「死なない方法が一つだけありますが分かる人はいますか」と質問されました。みんなが回答に困っている中で、先生の答えが今でも忘れられません。
と言った途端、クラスみんなから一斉に「当たり前やわ」ってなったのは言うまでもありません。
お釈迦様は「やがて死すべきいのち、今いのちあるは有り難し」(法句経)といのちを真実の眼で見られています。必ず終わっていかなければならないいのちの現実、戻ることのできない日々を生きて、誰一人として変わることのできない得難いいのちを生きていることはわかっているばずなのに、なかなかそのことに目を閉じ、生きているこの私がいます。
突然の別れ
2021年春、ずっと可愛がってくれてお世話になりっぱなしだった大学で空手道部時代の先輩が新型コロナに感染し亡くなりました。
大学を卒業して大阪で一人暮らしの時も「腹減ってないか。どうしてんか。ご飯食べこい。酒飲むぞ」といつも気にかけてくれ、地元に戻って離れても、九州で台風や地震のニュースが流れるといつもLINEで「大丈夫か」「気を付けろよ」って心配してくれ、事あるごとに連絡してくれていた先輩でした。
先輩の息子さんが空手のジュニア日本代表になって喜んで連絡くれて、一緒に喜んで楽しく話したその後に「コロナになった」って連絡がきて、「ひどくならないようにお気を付けてください」って何気なく返信して、「ありがとう」って。それで連絡も終わって。
一週間ぐらいたって、他の先輩から「あかん。先輩亡くなった」って連絡があった時には、もう何がなんだかわけがわからなくて、もっとお礼を言っとけばよかった。もっと連絡しとけばよかった。もう一度会いに行けばよかった。と後悔ばかり。
コロナで亡くなる人がいてもニュースや新聞で見ても全く自分の事ではなくてまるで他人事だった気づきました。
いつもお袈裟付けさせていただき、仏様のお話の中でいのちの無常をお話しさせて頂いているのに、一番聞いてなかったのが私でした。一番聞かなければいけなかったのが私でした。
めさまし
お葬式やお通夜の時に御香典や御仏前をお供えします。その時に一緒に「目覚まし」と書いたお供えをする風習のある地域が日本にいくつかあるようです。
私も一度ご門徒さんのお通夜の時にお供えされていました。聞くと宮崎の方でした。「めさまし」と濁らずに読むそうです。
悲しみの中で、亡くなった方がもう一度目を覚ましてほしいという思いも当然のことですが、亡くなった人は再び目を覚ますことはありません。
ではどうして目覚ましと書いてお供えするかというと、亡った方が残された家族や親しかった方々に対して、「いつどうなる分からない一つしかないいのち、一回しかない人生、誰にも変わることのできないかけがえのないいのちを生きているんだよ。そして、あなたの背後には目には見えない数限りの無い大きな大きなお陰様の中で生かさてれいるいのちなんだよ。当たり前ではないことに目を覚まして真実に気づいてくれよ」との願いです。
何気ない毎日かもしれませんが、当たり前ではないことに思いを馳せ、感謝の日暮らしをさせて頂きたいです。
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