自分の当たり前の範囲は意外と狭い
「なんで分かってくれないの?」と悲痛な叫び
今年もあっという間に5月になりました。4月から小学校に通う娘が大きなランドセルを背負い、背筋をピンと伸ばし、緊張した表情で学校に通っています。新しい環境に必死に慣れようと頑張っている姿は美しくさえ感じられます。
諸先輩たちから「子どもは目に入れても痛くない」と教えてもらいましたが、我が子をもつようになり、初めてその意味を実感しています。
つい先日、娘と近くの公園に行きました。そこは滑り台がいくつもあり、アスレチックもある広大な公園です。娘と一緒に鬼ごっこや滑り台、ブランコで汗をかくほど遊びまわりました。
途中、娘が特に表情が明るくなったときがありました。幼稚園のときに仲が良かったお友達もその公園に来ていたのです。
卒園してまだ数ヶ月ですが、久しぶりの再会でとても嬉しそう。
夕暮れ時になって、「そろそろ帰ろう」と声をかけると、長女は「いやだ、まだ帰りたくない」と言います。「もう十分でしょう、帰ろう。明日も学校だよ」と言っても駄々をこねます。帰ってお風呂に入って、ご飯を食べて、学校の準備をして…と、私は後先のことを想像しながら、徐々に声が大きくなります。押し問答が数回続いた後、娘が「なんでお父さんは分かってくれないの?」と怒鳴り、泣き出しました。
見かねたお友達のお母さんが、「うちも帰らないといけないから、ごめんね」と声をかけてくれて、娘も不本意ながらしぶしぶ帰ることに同意しました。
帰りの車の中でもしくしく泣き続けています。そんなに泣き続けることはないだろうと思い、娘に声をかけても黙ったまま。
帰宅すると、娘の様子がおかしいことに気づいた連れ合いが、「どうしたの?」と尋ねると、娘は「せっかく友達と会えたのに、帰るっていうの…」とまた泣き出してしまいました。
少しずつ娘は自分の気持ちを語り始めます。
今日出会ったのは幼稚園の中でも特に仲の良かったお友達でした。小学校では離れ離れになって久しぶりに会えてとても嬉しかった。小学校に入学してまだ1ヶ月程度、緊張する毎日。友達もまだ思うようにできていない。どんな勉強が始まるのか不安もいっぱい。そんな中で、久しぶりに会えたお友達。遊びまわる中で、日常のモヤモヤや不安が晴れる気分だったようです。
私から見れば、仲の良い友達と遊び回っているだけにしか見えませんでした。しかし、その心持ちとしては、毎日の緊張や不安から解放されるひとときだったのです。少しでも長くその時間を過ごしていたかったのに、父親の私がその時間を終わらせようとする。
「なんで分かってくれないの?」という一言は、「まだ友達と遊びたいから帰りたくない」ということ以上に、娘の日々の緊張や不安、葛藤が入り混じった悲痛な叫びだったのです。
自己中心性にとらわれていることを知っておく
仏教では、私たちは自己中心性にとらわれていると説きます。なにをするにしても私のモノサシで世界を推し計り、私のメガネをつけて世界を見ている。どんなに注意を払っていても、ジコチューさが現れてしまうのが私たち。
娘の不安や葛藤に気づきもせず、後先ばかりのことを考えて叱りつけてしまうのが、この私。たとえ大切な娘であっても、私は彼女の思いを完全に理解することはできません。
…と、いうことをまずもって自覚することが大切です。それぞれの常識や思いが異なることを認識しておく。そのことによって、次の言動に変化が生じるように思います。
仏さまは、私たちが自己中心的で自分勝手にしか生きていけないことをお見通し。ジコチューな私たちの在りようを受け止めてくれる存在です。
もし自分の自己中心的な言動で相手を傷つけてしまったり、思い悩むことがあれば、お寺を訪れてください。仏さまの前で静かに座ることで心が落ち着くかもしれません。本堂をあけて今日もお待ちしています。ようこそ、ようこそ。
*
「良いな」と思ったら、掲示板の写真を撮って、ハッシュタグをつけてSNSでシェア!友人・知人にもあたたかな言葉のおすそ分け。
*
上毛組 (こうげそ) お寺の掲示板とは…
*
このコラムを書いたお坊さんは…
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?