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記憶力のよいキミと物忘れがひどいボク
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「生クリーム買って来てくれた?」
あっ、と言ったぼくに妻の呆れた視線が向けられる。
「また忘れたの? いいよ、牛乳でなんとかするよ」
コンロに火をつけながら手際良く冷蔵庫を探り、鍋に投入。
「昔からもの忘れが多いけど、最近特にひどいよ。大丈夫?」
いつもはトゲのある口調も今日はマイルド。
だって今日は、ぼくの40歳の誕生日だ。
普段は買えない食材をワイワイ言いながら二人で調理する。網戸に張り付いた蝉の声に負けないくらい、フライパンの中からジュ~っと美味しそうな音が部屋中に鳴り響いた。
窓際に置かれたテーブルの上、出来上がった料理が夕映えに包まれ輝いている。いつもより背伸びして買ったワイン。トクトクトク…とワインボトルからグラスに伝わる音は何度聴いても心地よい。日が落ちる前に飲み始めるお酒は3割増しで美味しい。『顔がほころび合う』なんておかしな日本語が思いつくほど、二人とも笑顔が止まらない。
--*--
とっぷり日が暮れる頃には、二本目のワインも半分に減っていた。チーズを片手に妻がいつもの質問をぼくに投げかける。お酒をたくさん飲むと、この質問をされるのが最近のお決まりだ。
「わたしのどこが好きなの?」
── う~ん… まぁ、いろいろと
「でたっ! まぁ、いろいろと! この質問すると必ずそれ言うよね?」
── そうだっけ?
「そうだよ。半年前のわたしの誕生日にも、一年前のあなたの誕生日にも同じことを言いましたっ!」
頬を赤くした妻がグラスを揺らしながら、意地悪な目でこちらを睨む。
「でっ?」
その聞き方、半年前も一年前にも言ったよね… 口には出せない言葉をぼくはワインといっしょに飲み込んだ。
「もう一回聞きます。わたしのどこが好きなのでしょうか?」
── そんなに酔ってたら、言っても明日には忘れてるでしょ?
「いいえ、あなたと違ってわたしの記憶力は20代から変わってません」
確かにそうなんだ。彼女の記憶力は抜群で、5年前の旅行のランチもしっかり覚えてる。ぼくの物覚えはとっくに定年を迎えていて、一昨日の夕飯の記憶も定かじゃない。
「でっ?」
さんざんはぐらかしてきたこの質問。今日は節目の誕生日だし、きちんと答えてみよう。出会った日から変わらず思っていることを素直な言葉で妻に伝えた。
数秒の静寂。蝉が鳴きやんだ部屋にクーラーの音だけがかすかに聞こえる。
「・・・ そのセリフは初めてだね。ちょっと素敵な褒め方だぞ……。うむ、その言葉はちゃんと覚えておきたまえ」
おどける妻の顔に、酔いとは別の赤味がさした。
「でも、あなたはすぐ忘れるからな。信用ないんだよなぁ」
── そんなことないって
「いいえ。そのセリフも聞き飽きました」
── どうしたら信用してくれんのよ?
「あなたが還暦になって同じセリフを言ってくれたら信じてあげる。20年間、大切に覚えておいてね」
トロンとした目で妻はいじわる顔をする。こんなやりとりが最高の幸せなんだと、いつかの誕生日に嬉しそうに言っていたね。どちらの誕生日だったか覚えてないけど。
── 20年かぁ
「無理でしょ??」妻がいたずらっぽく笑う。 ぼくは曖昧に笑い返した。
--*--
気の済むまでワインを飲んだ妻がリビングのソファで寝息を立てている。
起こさないよう部屋の電気をそっと消した。
妻の言う通り、普段の言葉を還暦まで覚えている自信はない。でも、今日のセリフは特別なんだ。
20年前
サークルの新歓コンパ、何回目かの席替えで隣になった1年生。はじめまして、と言いながらキミが座った瞬間に目を奪われた。グラスを合わせた音も遠くに聞こえるほど見とれていて、気が付いたら次の席替えの時間になっていた。
口数の少ないぼくとの会話はつまらなかったと思う。新入生はいくつもテーブルを回り、何十人と挨拶しなきゃいけないから、その日の出来事もうろ覚えかもしれない。
でも、グラスを合わせたシーンが、ぼくの脳裏に一生忘れないほど強く焼き付いている。その日は、キミの卒業に合わせて結婚したぼくたちが、初めて乾杯した運命の日だから。
--*--
── 今日のセリフ、20年前にも言われたこと覚えてないよね?
妻にタオルケットを掛けながら語りかけた。
あの日、席替え直前に焦って絞り出したひとことは、告白まがいのほめ言葉で『緑茶に酔ったみたいです』とキミは顔を赤くした。その横顔がソファの寝顔にオーバーラップする。
あの日から何も変わってない。
キミを見ていると時間が経つのを忘れてしまう。半年前の誕生日にリクエストされたリップスティック。 ONE? TWO? THREEだっけ? ブランド名は忘れたけど、とても似合っているよ。
キミの寝顔越しに、ダイニングのラックに飾られた20年分の思い出が見える。年始に買った新しい破魔矢、ブーケの押し花、貝殻で飾られたフォトフレーム、ガラス製の鳥の置物、小さな銀のスプーンと写真立て、黄色い椅子の上に座ったクマのぬいぐるみ、少し色あせたハーバリウム……
高さは不揃いでデコボコ、ぼくたちの20年そのものだ。お互いの寝ぐせに笑い合う朝もあった、二度と会えなくなるかと不安に包まれる夜もあった。全てが輝いて見えて二人並んでどこまでも歩いた日もあった、心が引き裂かれる別れに二人抱き合って必死に耐えた日々もあった。
キミと過ごした20年が、ぼくそのものだ。
還暦のお祝いも家で一緒にご飯を作ろう。“二度目だね” と微笑むキミに、三度目の言葉にのせて40年変わらない気持ちを伝えよう。
また ふたりで乾杯しよう