無言の音
“さようなら” って美しい言葉だよね
彼女はときどき変わったことを言う。なんで? と聞いたら、除夜の鐘みたいだから、と季節が歪んだ答えが返ってきた。雨あがりの紫陽花が夕日の下で光る、今は6月だ。
--*--
初めて彼女と話したのは1年生の2学期で、席が隣になったから。赤い目をして、よろしく… と呟く彼女に「眠そうだね」と話しかけた。
「しんかいさん読みだしたら止まらなくて」
「君の名は。……の原作?」
「違うよ。第四版だよ」
鞄から取り出した赤い表紙の辞書を机の上にトンっと置く。辞書??と面食らった心を見透かすように、「面白いんだけどな、これ」とぼくにだけ聞こえる独り言を言った。宝石みたいに透き通った目と声で辞書を語る不思議な子、それが彼女の第一印象だ。
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休み時間、彼女はいつも一人で本を読んでいた。同じ中学から来た女子達と話しているのをたまに見たけど、本を読む姿の方が圧倒的に多い。友だちはいるけども少ない。嫌われてないけど慕われてもいない。そんな感じ。
授業中、気怠そうに丸められた背中が休み時間になるとスっと伸びる。ヨガの先生みたいな美しい姿勢で本を開くと、彼女は教室に溶けていく。まるでそこに誰もいないかのように。一学期のあいだ彼女に気がつかなかったのも不思議じゃない。それくらい彼女は本の世界に入り込む。
始業のチャイムが鳴ると、彼女はまた丸くなる。まるで昼寝をするネコみたいだ。
--*--
夏服より冬服が目立つようになった、ある日の昼休み。彼女が気になる本を読んでいた。作者は誰もが知ってる文豪。読めない漢字で始まる、その本のタイトルがなぜかとても気になった。
「その題名、なんて読むの?」
本からぼくに視線を移した彼女は驚きの表情を隠さない。
「 … ぐびじんそう」
「ぐ美人草?」
「そう、虞美人草」
「初めて見たよ、その漢字」
遠い山から降りてきた冷たい風が、窓際のぼくたちの席を通り抜けたとき、その言葉が口を衝いた。
「こんど貸してくれる?」
言った瞬間、頭の中につっこみ隊が十重二十重に押し寄せる。
オマエ読書好きじゃないだろ!?
断られたらどうすんだよ?
席替えまであと3か月もあんだぞ!?
地球の自転が止まったような、重い沈黙の数秒間。
「読み終わってからでいい…?」
彼女の言葉にぼくは無言で何度も頷いた。
--*--
本を渡されたのは、二日後の放課後。
「いつでもいいからね」と一言だけ言った彼女に「ありがとう」と一言だけ返す。先に教室を出た彼女と下駄箱で鉢合わせたら気まずい気がして、一人教室に残った。
机の上に置いた本をそっと開くと、かすかにいい香りがした。最初のページに挟んである小さい栞から広がる淡い香り。
その本は難解だった。眸(ひとみ)を凝らす、なんて見慣れない漢字は多いし何より内容が暗い。表紙を見返すと “夏目漱石” と確かに書いてある。教科書で読んだ “坊ちゃん” とはえらい違いだ。借りた本でなければ、最初の5頁で読むのを止めていただろう。
でも、我慢して読み進めた27頁の2行目に鮮血が出るほど胸を衝かれた。そのあとは、難解な文章が心地よくなる。早く先を読みたい気持ちが抑えられない。そんな経験は初めてだった。傾いた日が教室中の影を長くして、いつしか影の中に夜が混ざっていたらしい。急に教室が明るくなって顔を上げると、電気スイッチの横にいる担任と目が合った。時計の針は18時に近い。小さな栞を121頁に挟んで教室をあとにした。
--*--
「おはよう」
ぼくの赤い目を見た彼女の声はいつもより弾んでいた。
「読んだ… よね?」
「読んでるね、がっつり」
「おもしろい?」
「うん」
「どこらへんが?」
「う~ん、どこがとは説明しづらいけど… 」
「けど…?」
「とても気になる言葉があったんだよね」
恋を斬ると紫色の血がでるというのですか
その言葉に寝不足だった頭が一瞬で冴える。
「なんで? なんで分かった!?
手品かなんかなん?」
「わたしと一緒だからだよ」
彼女の頬に嬉しそうな笑窪が浮かんだ。
--*--
3学期の席替えで彼女は窓際の席に残り、僕は廊下側の席に移動した。でも、休み時間にぼくが窓際に行って本の話をしたり、彼女が廊下側に来てお気に入りの曲を一緒に聴くこともあった。
2年生のクラス替えで彼女とは別のクラスになったけど、偶然選ばれた広報委員の集まりで再会する。彼女が委員長でぼくは副委員長。委員会が終ったあとも次の広報誌の内容を二人で話し合い、帰りが遅くなることも珍しくなかった。
いつしか委員会が終ったあと、通学路から少し外れるコンビニでソフトクリームを食べて帰ることが、ぼくたちの決まりになった。彼女は必ずバニラ味で、ぼくはいつもミックスを注文する。コンビニ脇の舗装されてない小道を上がり、土手を歩きながら食べる。駅前の大きな橋まで歩いて5分の距離をゆっくり、ゆっくりと歩く。
「“さようなら” って美しい言葉だよね」
真っ白なソフトクリームを真っ赤な舌でチロっとすくいながら突然彼女が言った。
「なんで?」
「除夜の鐘みたいだから」
何か言いたいことがあるとき、彼女は少し伏し目がちになる。そのサインに気づいたら、ぼくは黙って聞き役に徹するんだ。その癖を知ってるのは学校中でぼくだけ、誰にも言えない秘かな自慢だ。
「グッドバイって “God be with you” が変化したものなんだって。それって神があなたと共にありますように、という意味でしょ?」
「言葉が強すぎるんだよね。あなたを案じてます!って自分の気持ちが前面に出すぎてて。“再見” は、また会いましょうと約束してるから重いんだよね。これも気持ちが出過ぎていて余韻がないんだよなぁ…」
「でもね。さようならは “左様ならば” が語源で、そういうことならば…って相手の気持ちを大事にしてる言葉だと思うんだ。伝えたいことはあるけれど、現状を受け入れるというか… 今、この瞬間を大切にしようという気持ち。淋しさの中に優しい余韻があるよね…」
ソフトクリームを食べ終わった彼女が目を大きくして、こちらを覗き込む。
今度はあなたが話す番だよ、透き通った瞳がそう言っていた。少し湿っている土手に鞄を敷いて二人で日が沈むまで喋った。家に着いたら何を話したのか忘れるくらい些細なことを尽きることなく語り合った。
--*--
期末試験が始まる頃、せっかちな梅雨は終わっていて、気の早い夏の太陽が通学路をジリジリ照らしていた。額から落ちる汗と一緒に一夜漬けで覚えた英単語まで流れ出そうだ。
暑い、とても暑い
早くソフトクリームが食べたい
3日間の試験が終わった翌日は、一学期最後の委員会がある。その日は特盛サイズのソフトクリームを食べようと、土手で夕日を見ながら二人で約束した。委員会がなかったこの1ヶ月、ぼくはアイス断ちをして最高の状態でその日を迎える準備をしてたんだ。
--*--
その日は、簡単な連絡事項だけで委員会はすぐ終わった。いつも通り自然に彼女とぼくが教室に残り、二人で帰る。正門を出て左に行こうとするぼくを彼女が呼び止めた。「今日はこっちから帰っていい?」コンビニとは逆のみんなが通る通学路を指差した。
大会が近い野球部のはつらつとした声が風に乗ってぼくらの背後から追い抜いていく。保育園帰りの子どもを連れて歩くお母さん、Yシャツに汗を滲ませながら駅に向かうサラリーマン。いつも通りの風景だけど金曜日の夕方は、みんなの足取りが軽やかだ。
「もうすぐ夏休みだねぇ」
「今回のテストはマジで自信ないよ」
一言もしゃべらず足取りが重い彼女に気が付かないフリをして、わざと他愛もない話を続ける。川の上にかかる駅へと続く大きな橋を渡り始めたとき、彼女がぽつりと言った。
転校するの
ソフトクリームでいっぱいだった頭は彼女の言葉を理解できない。期末範囲外の難問にぼくの頭は完全にフリーズした。
何も聞けないまま、ゆっくりと二人で橋を渡り始める。
一歩一歩、一言一言、彼女は話してくれた。
お父さんの仕事の関係で遠い街に引っ越すこと、クラスのみんなには終業式まで内緒にしてること、本を貸してと言われ慌てて続きを読んだこと、ソフトクリームがあんなに美味しいなんて知らなかったこと…
夕方の駅へと向かう人たちは、足早にぼくと彼女を追い抜いていく。反比例するようにぼくたちの速度は落ちていき、橋の終わりでゼロになった。
どれくらい時間が過ぎたかは分からない。彼女が橋の上から遊歩道のアスファルトに足を踏み出した時、ジャリっと小石が擦れる音がして我に返った。しずかにゆっくりと彼女が振り返る。
さようなら
伏し目がちの彼女がまっすぐぼくを見たとき
無言を飲みこむ音が聞こえた
だから
ありったけの気持ちを込めてぼくも返す
さようなら
彼女の頬に切なげな笑窪が浮かんだ