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恋や愛とは違う気持ちがあることを
タイトルは、平松愛里さんの「Dear My Baby」という曲のワンフレーズから引用したもの。子どもが生まれた喜びを歌にした、ぼくが大好きな曲だ。
なんで20年以上も前の曲を急に思い出したかというと、このエッセイを読んだから。
娘さんが学校行事で二泊三日のキャンプに出掛け、初めて経験するお子さんがいない夜に感じた気持ちを書いた、カエデさんのエッセイ。
でもこの、寂しいっぽい感情を切り取って机の上に置いたとき、どうも「さみしい」一色じゃない気がしている。
この一文を読んだとき、「さみしい」以外の色は何色だろう……?と思った。しばらく考え、思い出したのがタイトルの歌詞だ。
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子どもの気持ちは顔に出る。嬉しければ笑うし、悲しければ泣く。すべてがゼロイチの世界。純粋な感情世界で子どもたちは生きている。
でも、大人だとそうはいかない。「好きと嫌い」「嬉しい悲しい」はパッキリと分かれてない。別々どころか、その境界はとても曖昧で、ひとつの固まりに感じることがある。悲しくても笑えるし、嬉しくても何でもない素振りができる。つくり笑顔という言葉を知ったのはいつだったのか、覚えている大人は少ないだろう。
家庭でも公園でも、なんなら図書館だって。子どもがいる空間に身を置くと、ゼロイチ感情世界に浸ることができる。良いものは素直によいと言いたくなるし、嫌なことにキライと言える勇気を思い出す。
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面白いな、と思うことがある。子どもの感情は、パキっとしてるのに表現は曖昧なところ。好きの理由も、嫌いの意味も、言葉にすることにこだわらない。「なんとなく好き」「なんとなく嫌い」の世界線。脳の中で感情をつかさどる部位、大脳辺縁系が外の世界と直結してる。
一方、大人は気持ちを言語化したくなるもので。もちろんぼくも、もやもやした気持ちをそのままにしておけない。その状態で頭の中にほっておくとソワソワするし不安になる。逆に、自分の気持ちにピタリとはまる言葉に出会うとホっとするんだ。言葉や記憶、思考などの高度な機能を果たす大脳皮質が、大人になると発達するせいだろうか。
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子どものときには、色の三原色みたくシンプルだった感情の色。赤青黄色とパキっと分かれた感情の色世界。大人になるにつれ、色の混ぜ方を知ると感情表現が豊かになる。でもそれは、混ぜすぎると灰色の気持ちになることを知る、大人への第一歩。
タイトルの歌詞には続きがある。
恋や愛とは違う気持ちがこの世にあることを
小さな微笑みひとつで教えてくれるの
普通は、恋よりも愛の方が大きいというか重いというか、何か尊い感じがするけれど。子どもに対する感情はそんなに単純じゃなくて。マーブル模様のようにたくさんの色が、鮮やかに交じり合っている。
そうなんだ。
子どもは、言葉にならない気持ち、混ざっても濁らない色があることを教えてくれる。それは、ある日突然ふとしたときに訪れて。固くなった大人の頭をそよ風みたく撫でていく。
そんなとき、「この色はマーブル模様だね」と言葉にするのも野暮というもので。そんな野暮なことをしようと思って書き始めたこのnoteが、少し恥ずかしい気持ちにさせるのだけど。穏やかなマーブル模様の風が、ぼくに吹くときがあったなら。そのときは、「あぁ、キレイだな」と、ひとこと呟きたいと思っている。