雨にキッシュの花束を
ありふれた街に平凡な雨が降っている。平凡の反意語は非凡だけど、非凡ってポジティブな言葉に見えないよね。そんな、たわいもないことを考えながら坂を上る。
「キッシュをひとつ買ってきてくれる?」
駅前から続く坂道を上りきったとき、妻からの着信があった。
「うん」と短く答えて僕は、上りたての長い坂を下り始める。
坂の途中には、カフェみたいな佇まいの理髪店があって、その隣にはアクセサリー店と花屋。その先には焼き鳥屋とイタリアンバルと小さな本屋があって、ラーメン屋とクリーニング店とラーメン屋が並んでいる。さらにそのずっと先に、目指すパン屋がある。
クリーニング店の前を通るのが、僕は苦手だ。店主であろう男は、いつも店先に仁王立ちして行き交う人に睨みをきかせている。この男が仕事してる姿を見たことがない。僕は息をひそめて傘で顔を隠すようにして男の前を通り過ぎる。
取り逃した酸素を取り戻すようにパン屋に入り大きく息を吸った。雨とイーストの香りが混じった空気に鼻孔が嬉しそうに反応する。キッシュは、店に入ってすぐのテーブル。一段高い位置に置かれた丸い皿の上に並んでいた。
6等分されたキッシュは、綺麗にひとつおきに抜き取られ、白い皿の上に咲く3枚の花びらのようだ。トングで一切れ、トレーに取ろうとして手が止まる。「本日分は完売しました」と書かれた小さなカードが目に入ったからだ。レジから無表情な視線を僕に送り続ける女性に、これは買えないのですか? と質問する。
「そのカタチになったら売り切れだよ。まったく…… 年に何回か、そういう変な取り方をする客がいるんだ」
苦虫を噛みしめたような表情で、その女性はパンドミーをスライサーでカットし始めた。キッシュを4等分にしたらいかがですか? と僕は提案する。4等分ならどう取られても、ひとつおきにはならない。
「それじゃ意味がないじゃない……」
宇宙人でも見るような目で言われた言葉には、妙な説得力があった。じゃ、また来ます、とスライサーから1ミリも目を離さない女性に会釈して店を出る。
長い坂道には、淡々と雨水が流れている。僕はいつもと変わらぬ歩幅で坂を上る。クリーニング屋を通り過ぎたとき、店主の男に話しかけられた。たぶん、この街に来てから初めてのこと。口をほとんど動かさずに話す姿は腹話術のように見える。胸に付けてるクマのバッジが本体かもしれない。
「なにかあったのか?上機嫌だな」
そうか、僕は機嫌よく見えてるのか。意外だったが嫌な気はしない。キッシュの話を男に伝えた。ほう、と呟いて男は店奥に消えていく。しばらくするとアイロンのスチーム音に混じって鼻歌が聞こえてきた。思い出したように僕は、キッシュが買えなかったことを伝えるため、妻に電話をした。
「そう。それじゃ仕方ないわね」
妻の声もどこか嬉しそうに聞こえる。
長い坂を上り切ったところで、僕は来た道を振り返る。ありふれた街に、平凡な雨が降り続いていた。