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言葉はどこまで届くのだろう
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「手当て」の力を信じますか?と聞かれたら、あなたの頭の中にどんな答えが思い浮かぶだろう?
─ 信じるとは、どういう意味ですか?
─ 分からないです
─ 信じます
答えは人それぞれで。というか、答えなんてそもそもないんだけど。ここで少し脇道にそれて、語源の話をしたい。
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ぼくは語源マニアで。ふとしたときに、その言葉の成り立ちが知りたい衝動を抑えられなくなる。例えば「わびさび」。「侘しい」と「寂しい」が合わさった言葉なんだと想像は付くけれど、それがなんで日本人の美意識に通じる、しかもかなり根幹を成す価値観になったのか? 気になった瞬間に知りたい気持ちを止められない。
諸説あるので正解はないが、京の都が焼け野原と化した室町時代に起きた応仁の乱をきっかけに、“何もない荒れ果てた世界の中に、美を見いだす価値観が生まれた” というのが有力な説のひとつ。
それも納得がいく物語なのだけど。室町時代からさかのぼること500年前の平安時代から「寂び」がもともと美を現す言葉で、「古さや静けさ、枯れたものから美を感じる」日本人の美意識のひとつであるというエピソードが好きだ。戦で全てを失った虚無感から美を見出したという説明も説得力はあるが、太古から脈々と日本人の心の底に受け継がれた美意識なんだというストーリーも、それに負けないくらい心惹かれるものがある。
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脇道が随分遠回りしたけれど、「手当て」の語源に戻ろう。手が足りない際、人手を充当するという言語学的な説もあるけれど。やっぱりここは、手で体に触れることで得られる癒し効果が原点という通説を信じたい。語源は諸説あるものだから、自分が一番しっくりくる説を信じるのがいい。
いたいの いたいの とんでけー! と言われると、痛みが和らぐとか。お腹がシクシクしてるとき、お母さんが手を触れるだけで体の中心がじんわり温かくなるとか。手当ての効果と、その語源に親和性を感じる人は多いはずだ。手が触れるだけで痛みが和らぐなんて、少しスピリチュアルな印象もあるけれど、触れ合うことによって分泌されるオキシトシンというホルモンに、癒し成分があることが医学的にも立証されている。
では、言葉には癒し効果があるのだろうか?
答えから言えば、ある。
手当てと同じくらい効果がある。
その一言に救われた、という経験は誰にでもあるはずで。言葉には癒しも、救いの力もある。手当ては直接触れる必要があるけれど、言葉の力に距離は関係ない。さらに言えば、時間さえ超越する。千年も前の詠み人知らずの和歌に、救われた人もいるはずだ。
多くの人が、言葉は届くと信じている。でも、それと同じくらいどれほど届いてるんだろうと不安になったりもする。インターネットの世界では特に。
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「言葉にできない」という小田和正さんの名曲みたいに、気持ちが溢れて言葉にできないときがある。どんな言葉を並べても相応しくない気がして、届けたい気持ちだけが体の中に残る。
あなたの言葉は、たしかに届いていますと。
そんなあなたに言葉で寄り添いたい。寄り添えたらいいのにと。
このマガジンが始まってから、正確に言えば一年近く前からだけど、そんな気持ちがぼくの中に積もり積もっている。