見出し画像

御礼:田中先生にありがとう!

一昨日の共同親権討論会を振り返って思考実験をつぶやいていたら

ドーナツトークの田中先生が記事にしてくださった

BLOGOSにも転載される

討論会では、わかりやすいに出会ったのかもしれないが、相手にしてはならない、相手にする必要もない、とも気づく

向き合うべきは、敵ではなく、であること

ふつうのひとが疑うこともない問題に直面していることを自覚し、大多数のふつうのひとに知ってもらい、当事者になる以前に共感をしてもらうことこそ大切である

折しも、いろいろな家族のカタチフォーラムを公民館で開催し、ふつうのひとと対話する機会を通じて、家族にまつわるそれぞれの課題について、当事者こそ勉強熱心に詳しくなっても、当事者外、しかも、どの問題にも関係しなかったふつうのひと(しかし、実は、多数派とも限らないし、身近な誰かの悩みかもしれないことはせめて気づいてほしく、当事者と隣り合わせにいる存在)にとっては、問題があることの意識すらしない世界にいるということを当事者も改めて知る必要がある

見えない壁は実は分厚く、世界を切り分ける

壁の中にいながら声を大きくしても変わらない

壁の間際まで歩みを寄せて、傾聴し、対話を重ねてこそ、初めて理解を得る

との対話は、むしろ不要である

あちらとこちらの立場で強烈に議論をしても、ふつうのひとにとっては、どっちでもいい、どっちも同じように見える、で終わってしまうのだ

あちらとこちらにとどまらず、家族にまつわる、あれやそれの問題も、ふつうのひとにはどれもへーそうなんだーで同じくらいに関心が低いかもしれない

まして、壁の中で地雷を踏み合って、分断していては、壁の向うのふつうのひとの世界には何も響かない

そういう課題に向き合っていたときの、田中先生のいうことはまさに当てはまる

子の連れ去りという道徳


違法として、刑罰をもってしてでも禁止すべきとも語られる、子の連れ去り(態様としては、誘拐と重なり得る)が、日本におけるイエ文化の中では、むしろ、それが道徳ではないか、という指摘

法に誤りがあれば、改正作業によって是正しうる

しかし、道徳にまで浸透している、人々の意識にある規範を変えるのはとてもとても難しい

いろいろなところで発信しているが、私が大学生の頃、身近に、夫婦別姓として、学内で通称使用を開始し、旧姓を名乗り活動するリアルな存在と出会った上で、なぜ、そういう活動方式があるのかを知識として、理屈として学び理解したときに、私の中での夫婦別姓・改姓しないという規範は、体に染み込んでいったし、ごまかすことが難しくなった

20代後半、周りが年相応に結婚をし、当然のように大半の女子は改姓していったし、疑うこともしなかった

知って体に染みついた規範と整合しない大勢を前にして、無力を覚えるばかり、私の結婚は、無謀な挑戦であったし、結果、玉砕したともいえる

時代が追い付いていなかっただけかもしれない

10年経って、少なくとも、職場では通称使用を選択して夫婦別姓生活(改姓しない)を実行する方々との出会いも普通になってきたし、夫婦別姓というものがあるらしい、早く制度が変わるといいよね位はたとえ他人事どまりだとしても、話題としても普及も進んでいる

同様に、男性の育休の認知度も進んでいる

そこに法改正のようなセンセーショナルな革命があったわけではないけども、少しずつ、地味だとしても、人々の意識を変える力は働いてきているように見える

共同親権もしかりである

日本の文化・歴史・戸籍制度等など、いろいろなものが阻んだのかもしれないが、妥協の策としての民法766条改正が、2011年に実現したこと

実は、すでに、共同親権法改正とも言いうるのである

運用によって、悲劇のトリニティを克服する可能性を秘めているという評価も可能であると考えている

面会交流と養育費を明文化し、共同養育を可能にする法改正まではすでに実現しているのだから、あとは運用に担い手次第である

2012年に司法試験に合格し、2013年末に弁護士登録、2014年から弁護士として家事事件を扱い始めてからのこの6年の景色は、やはり変容している

相変わらず、我が子に会えなくなったという相談者は続くが、国家組織としての裁判所の意識変革が進んでいると思う

松戸判決の高裁が覆ってしまって、評価が見過ごされがちだが、やはり、フレンドリーペアレントルールの理念は、決して失われていない

今回、田中先生のおかげで懐かしい記事を改めて振り返ることができた

一進一退、足踏み遠回りに見えるかもしれないけども、確実に裁判所は変わろうとしている

昨年からの裁判所の動画配信からも、伝わってくるのだ

法改正の影響は、司法を担う組織である裁判所には浸透しやすかった

ただし時間はかかってしまうのはやむを得ない

それだけ、丁寧に、研修も実施されていっていることはよく感じられるのである

課題は、弁護士の方である

弁護士会という組織で、内部研修もあるが、民法766条改正の趣旨を理解し、組織的に改まるには、さらに時間を要することになる

それでも、問題意識を共有する同志となる弁護士が増えてきているという手応えはある

将来的な家事事件の扱い方として、期待しているADRといえば、離婚テラスを推しているところ

先日、所属する弁護士会で、離婚テラス代表の小泉氏を講師として招いて、元家庭裁判所調査官としての子の心情等に関する専門的知見を解説してもらう企画があり、弁護士が会として学ぶようになったということが画期的に感じられた

知れば、活用する担い手が増えていくだろう

家事事件をめぐる景色は変わっていく

それは、ビジネスの観点からも変わる要素は元々もっている

早期解決、子どもも含めwinwinwinへと導くことで、携わる弁護士も双方winwinにもなりうる可能性があるのが共同養育的解決だからだ

もはや、共同親権不要論が枷になろうとも、共同養育推奨の勢いは止まらないだろう

虐待等のために否定することが正当化される場合を除き、不合理な選択はいずれ衰退することが明白である

予算不足のために育児支援が不足し、まして共同親権は無理論

もあるが、経済衰退傾向の日本だって、世界の国々と比較すればまだその経済力は優位ともいえるのに、お金の問題で共同親権が阻まれるという指摘は明らかな誤りだろう

むしろ、経済的に弱いからこそ、育児の実働を分担せざるを得ないことがあってこそ、男女共に対等に働き、結果、共同養育が選択されていると評価する方が正しい

お金があることが共同親権を実現するのではない

日本は豊かであった

勤勉に命を削ってでも家族のためにと異常なほどの長時間労働を引き受ける父がいて、家計を支え、妻が稼働せずに済むほどの富を得ることができていた

女だからといって稼がずに済む国などなかったのではないか

男女共に稼ぐために働いているのであれば、共同養育を対等に担うことは当然の帰結だろう

豊かさゆえに、男女の経済格差を遺してしまった

だが、もうその構造は崩壊が近づいている

長寿化もあって、女性自身が稼いでいかなければ、養えるものはいなくなる

お金という資源が枯渇したとき、知恵と思いやりという資源の活用が生き延びるための唯一の手段になるだろう

世界にある拡大家族を輸入するのではない

日本の伝統たる群れでの育児が復古する

それを共同親権と呼ぶかどうかは重要ではない

共同親権がなくても、共同養育が充実すれば足りるし、しかし、共同養育の拡充を促進させるのは、共同親権といえるのである

共同養育を肯定し、それに根差した育児支援が果たされれば、共同親権があることと同じにたどりつくし、また、そういう育児支援を満たすは、共同親権制そのものともいえる

育児支援とは共同親権のこと、とやはり落着する

共同親権を阻むの実像が見えてきたとなれば、壁を打破する日も近いのだとわかる

近いと信じたいのである




親子に優しい世界に向かって,日々発信しています☆ サポートいただけると励みになります!!いただいたサポートは,恩送りとして,さらに強化した知恵と工夫のお届けに役立たせていただきます!