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リスコ誕生!マルシェに行ってみた!!共同親権の共同養育だから新しい!!父母が対等な関係でする子育てこそ共同親権の子育て、すなわち共同養育!!単独親権制下の隷属的なそれとはまったく違う☆


昨日、シンポジウムの前にだけど、リスコ誕生記念イベントがあるということで、ブースを設置しているマルシェに行ってみた!!

改めて、リーフレットを手にとって読ませてもらって、新たなる事業がスターとすることにワクワクする

朝からABEMAを視聴して

マジ、トレンドかもしれないっていう男性のDV被害問題

というか、フォーカスされるのが遅すぎるくらいよ!!


連れ去り被害はDV

そういうことだと思う

だから、DV対策が連れ去り問題の解決になっていく

なぜ、連れ去られるのか?

長年にわたり継続的にじわじわと尊厳を否定され、自信を失い、自己肯定感を損なっていくと、他人軸の生き方に陥り、自分の判断で自分で決定していく、ということができなくなることが起こっていく

昨日のシンポジウムでの教えもそうだけど、主体性を失われた状態での合意とか選択とか意味があるのか、そもそも主体性を取り戻して初めて対等な検討が叶うのではないか、ということがよくわかる

決断するということの責任の重さ

意外に、だろうけど、ジャイアンのようなリーダーシップに何でも決めてもらって、引っ張ってもらうというのは楽という見方もあるのかもしれない

自由があった方がもちろんいいとしても、経済力が弱くて自立ができない状況だと、頼らざるを得なくなる余り、気を使い、意見ができなくなる、よりよい選択肢を模索しようと提案することも憚れ、イエス以外のリアクションは、ともすれば不機嫌な圧を招くとなれば、何も言わないということに慣れてしまう

おかしいと思って意見をすれば負の事態を引き起こすとなれば、違和感さえ気の所為だったと先延ばしすることを自ずと選んでしまう

自覚さえないかもしれない

自分で選んだことだから問題はない、と思い込むかもしれない

大したことではない、基本的には穏やかで問題はない

そうやって違和感に向き合わないということに慣れていくと、思考停止するわけで、まさか、問題のある事態がそこにあり、「避難」しなければならないなんて思いつきさえしない

まして、連れ去りなんて、子どもにとってかわいそうなこと、よほど目の前で物理的な暴力を受けて即座に警察がやってくるようなそういう場面のことであって、自分には関係ない

警察も、公道でのことならばともかく、通報しないと家庭の中にある暴力・支配に介入することもない

被害者が耐えて耐えて疲弊しながら暮らしている中で、何かの弾みで、連れ去りが起きていく

連れ去られて、この世にこんな理不尽があるのかと怒り・悲しみ・絶望・生きる気力さえ失っていく

ただ何もできないままで過ごすと、まさしく、司法による救済の余地をどんどん失っていく

適切な初動を経て、ひょっとしたらなんとかなりうることがたまにはあるかもしれない、そのチャンスにさえたどり着かないことだって多い

被害は、連れ去りが起きたそのときに発生するのではなくて、何もできずに連れ去られてしまうほどまでに、思考を停止させ、行動力を奪い、ボロボロに使い倒されて、およそ人格主体性たる個人として生きる術を失っている、そのときにすでに人権侵害という被害が起こっているのである

ま、人権侵害は国家権力によるわけだけど、単独親権制という家制度の名残を放置してきた国策の中で、都合よく加害者のための家族という暮らしを強いる状態で起きるのだから、人権侵害に加担しているといっていいだろう

加害者が連れ去るって弁護士は知っている

被害者である女性が夫に子どもを連れ去られ、別居母となって、我が子に会えなくなる、ということをDV問題に詳しい弁護士はよく知っている

加害者なのだから、それだけのことをするだろう、と

一応主たる監護者性を主張できればワンちゃんあるとはいえ、子どもの年齢が相応であれば、母親が被害者であるといっても構わず、母親についていって家を出るなんてことを望まないこともあり、結果母子が離れて暮らすことになり、母親は我が子に会えなくなるということだって起こっていく

そうなると、司法がいかに無力かっていうことは弁護士は知っている

そうなる前に、子どもが幼いうちに子どもを連れて別居した方がいいってことになったのではないだろうか

ちなみに、共同養育(単独親権制の下のそれ)も同じく、これまで何度も聴いたことがあるのが、親権の指定むなしく、「子の意思」によって簡単に別居母になってしまうことである

中途半端に交流しているといつだって親の立場が逆転するリスクがある(最初から対等にすればいいのだけどね)、だから、最低限の交流に制限して、絶対的な優位を確立した方がいいというのが、単独親権制の発想である

昨日のシンポジウムでも、声だけですぐにわかったあのいつもの先生に教わったことがあるけども、連れ去られた被害者を救う手段がほぼないわけで、そんでもって、クライアントも、加害者に連れ去られた子どもが洗脳されて、加害者の言いなりになることも想像に容易く、子どもが大人になって、洗脳する親から離れて親子分離する頃まで待つ以外ないといってことだって、納得できてしいまい、それ以上の裁判手続をあえてとらないということもある、と解説するのである

そうなのだろう

結局理不尽な状況を変えられない中で、できることといえば、時間をかけて待つ、それまでの長く気の遠くなるほど先までの間、ひたすらエンパワメントすること、それが唯一生きる術である、それくらいのことを教わったように思う

もっとDV対策

暴力はダメよでは済まなかったりするのである

もっと丁寧に寄り添っていく必要がある

リスコのリーフレットを読んで、対人支援のプロたちが切り拓く明るい未来が見えてきて希望を覚えた

脱暴力アプローチもあるらしい

まだまだ取り組めることはあると思う

父母対等の子育てというのは、父母双方が自信をもって揺らぐことのない主体性あって実現するものだし、だからこそ、要望は伝える、衝突したら調整する、そうやって初めて譲り合いも自然に叶い、後腐れもなく、揉めない関係性の中で子どもがのびのびと育っていく

共同親権の子育て

に通じるわけである

共同親権の子育てはDV対策必須である




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弁護士古賀礼子
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