20241124~秋~明日を描く共同親権弁護士
よきミーティングであった
この前はビックリ会えたり
秋を愛でながら美味を楽しみ、仲間と夢描く時間って最高なのだと余韻に浸る
40半ばにしてまるで青春のごとく
たぶん、それでいい
同志と語らってめざしたいGOALはこれ↓
共同親権の子育て
で、これの前提に、改正民法が刻んだのは、父母の協力
婚姻さえしていれば付与されていた共同親権は、婚姻外にも選択肢を用意しようという際、これを条件にした
父母の協力
ひとつは、高葛藤はダメよ
これは、それでいいと思う
ま、何を高葛藤というか、とか、高葛藤を引き起こすものは何か、とかにしっかり向き合った上で、雰囲気にのまれないとしないといけないけども
理想としての共同養育(キラキラ)にも限定されないのがミソ
もめない、だけでいい
不干渉だったり、フラットでいること、だったりする
関わらないことも「協力」
意外だけど、重要な発見かもしれない
揉めない関わり方ができる自信があればよいのだけど、ま、不仲なときって、「ありがとう」さえ嫌味に受け取られる?なんてあったりね、沈黙こそ最適解ということなのだろう
とはいえ、最低限のコミュニケーションがあった方がいいことはもちろんある
ただ、場合による
どの程度の関係性かはともかく、必須なのは、紛争解決済みであること
司法を機能させてでも、とにかく紛争解決する
争わない、とか、そういうもんじゃない
紛争は、そこにある
回避できるとか、コントロールするものじゃなくて、紛争(対立)があるならあるで、まず見極めて、その上で対処することが望ましい
対立があるときに、その紛争を解決する手段は、前に進むか、退くか、何もしないか、実は、3パターンというわけか・・・パルプンテもあるかな
退いて済むならそれもひとつの攻略なのだろうけど、それは、時に、紛争解決の先延ばしでしかないこともあったり、場合によっては、紛争状態の温存悪化を招くこともありうる
病理現象が参考になるかもしれない
”争わない”というのはキケンなときがあると考えている
もう目の前で、大きな事態が起きているのに、向き合わないって、それでいいのですか?、と
そして、家庭裁判所への誤解も先行しているように思う
家庭裁判所も、司法機関の一翼として、
紛争解決機関である
紛争そのものは、実態として、裁判所の外に存在しているわけで、裁判手続を利用することが、紛争ではない
これはとっても大事なことだけど、意外に知られていないようにも危惧する
とはいえ、なんか、運気を悪くさせるような負のオーラには包まれるから、早々に、家裁を卒業することの意義はある
あと、家裁は利用するけど、なるべく、家裁に判断させず、自分でケリをつけることも重要だったり
ナンピトにも不幸にさせられない
自分の人生を自分で決めるということはとっても大切である
なぜ会わせないのか?
会いたいし会って親子関係が良好な親こそ会わせない現象があるとき、その背後には、そうやって不幸にさせることができる力を包含するゆえ、そういう権力を発動させてしまうのではないかと仮説を立てている
会えなくても不幸にならないことが突破口?
要は、親子が会う会わないを制御する権限を握られることで、支配構造に組み込まれてしまうので、早急に脱出することが必要になるわけである
会いたいが、それは、子どもを幸せにするという大人の責任を親の務めとして果たすため、という筋道を示し、会いたいことで、感情が満たされるとか、幸・不幸自体と切り離すことにより、制御意識を喪失させていく
幸せでいるということは、離婚して他人になった以上、お互いに干渉することではなくなるので、自律して成すものであって、要は、勝手に幸せになるということである
会えない状況にさせられて、不幸になることをやめるということである
これをすると、相手のことを不幸にさせたくなるような思考が行動に陥らなくてよくなる
もう他人だから、幸せにする責任からは解放されているわけだけど、いや、でも、積極的に他人様を不幸にするような迷惑なことをしてはいけないのは、社会のルールである
離婚した以上、甘えないというのは大事だけど、時に、世には、マダ夫・マダ妻意識で、”理想”的な振る舞いを期待してしまうことも、まああるだろう
ありがとう、と言ってくれたらいいのにな、程度のことは、別に元夫婦ではなくてもあるかもしれない
イジワルな言い方はしないでほしいな、も、ま、マナーとしても期待するのはやむをえないが、でも、時に、歯に衣着せぬ的な人はいたりする
そんなことで、イチイチ傷つかないし、自分スタイルを変えないというのも、自立した大人の振る舞いとして有用なこともあるし、それは生きやすく生きるための攻略スキルでもあったりする
みんなが優しく慕ってくれる環境で生きられるなら幸せな話だけど、現実、そうでもないわけで
ってなると、そう、それだって、とっても大切なスキルなわけで、ぜひ、親として、子にはそのスキルを伝えていきたいと思うと、そういうスキルを磨くのも悪い気はしない
心ある元配偶者に恵まれるばかりだったら、そうは鍛えられないかもしれない
想像を超える腹立つことが起きて、でも、その原因とか背景の説明もなく没交渉で、どんどん腹立つのが増して憎くなることも自然ではあるけども、それで、気が荒れるのもなんだか損した気分になり、どうせ、没交渉で、真相もわからないし、知りたいわけではない心境に気づくと、知らないなら、都合よく補うことにしよう、というマインドセット?により、済むこともあるわけだ
都合よく背景事情を妄想して気が済むと、別にそれが真実かどうかを確かめることもないし、確かめなくても良い
自分のごきげんさえ整えばそれでよいわけである
ごきげんであれば、意外に、人生はうまく進む
その方が、真実を知って不幸にさせられるよりもとっても大事なことというわけである(真実は、どーしようもない事情で弁解許すマジ、というオチかもしれないと思うと、知らなくてもいい)
この辺の発想は、リーガルマインドとして磨いたのかもしれない
真偽不明なときにどうするか、という決着方法があるからこそ、裁判じゃあるまいし、真偽不明なときは、思いっきり自分に都合よくてよい、みたいな
井の中の蛙かもしれないけど、幸せならそれでよいじゃない、と
大海を知らずで何が悪いんじゃ
幸せに生きるというのも、意外に難解なチャレンジである
人生は短い
子ども時代は、もっと短い
いかにモラトリアムが延長されたとしても、子どもらしい子ども時代を存分に楽しめる期間はそうは延長できない
親と子、一緒に楽しみながら、生きるスキルを鍛えていこう
だから、親子は会うことはもちろん、よく遊び、よく学び、一緒にいろいろなことをしないとね