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1300日目!毎日、共同親権を願い、いよいよ、共同親権訴訟の最骨頂!尋問期日を傍聴しよう!!

あ、今日は法制審だった?

それどころじゃなく、忙しく準備中の明後日の期日

なんだか、12月22日、傍聴券交付期日がいっぱい?

よく見たら、共同親権訴訟は、抽選の文字が明記されている

抽選!!

それだけ、世の中が注目している、ということを裁判所が認めているという意味で大変光栄である!!

この並びの中に、共同親権訴訟


殺人・建造物侵入・贈賄、に続き、殺人に挟まれる・・・

大法廷も憧れだけど、傍聴券交付、そして、抽選について広報されるというのが、弁護士の仕事をする上で、そうあるわけではないので、気が引き締められていく

法廷に立つ専門家証人・原告の方々との打ち合わせも進んでいるところである

予習のために、鈴木博人教授の意見書を読んでおこう!

正式バージョンはこちらから

鈴木教授意見書

1.問題の所在

1.1 用語についての前提理解 

本意見書でとりあげる問題を議論する前提として、家族法という術語を、日本では、民法典第4編親族(以下親族法と称する)と同第5編相続(以下相続法と称する)の両方を含んだものとして使うことが多いが、理論的にも比較法的に見ても、この使用法は誤りである。家族法とは親族法を指し、相続法は含まない。ここでも家族法という術語は、日本民法では、親族法のみを指すものとして使用する。
 また、本意見書では、ドイツ法を比較法の対象として参考にする箇所がある。ドイツ民法では、「親権」という用語を1979年改正法により「親の配慮」という用語に変更している。該当する部分には括弧書きでその旨を示しているところもあるが、本意見書のかぎりでは、「親の配慮」部分は、「親権」と読み替えていただいてもかまわない。なお、ドイツ法では、基本法(憲法)6条2項に「子どもの保護及び教育は、親の自然の権利であり、まずもって親に課された義務である。この義務の遂行については、国家共同体がこれを監視する」[1]という条文が存在する。基本法のいう親の権利は「親の配慮権」も包含するその上位概念であり、親として固有にもつ、基本法上保障された権利(配慮権を剥奪されていても存在する)であることに留意されたい。

親権の上位概念の親の権利

1.2 親権が婚姻に紐づけられていることから生じる矛盾

 現行家族法は、親権の共同性をすべて婚姻に紐づけている(819条1項~5項)。親権の共同性とは、親権者としての法的地位をもちうる父母の平等性と言い換えることもできる。また、親権は義務的権利と言われるが、その法的性質は、親の私法上の義務というのが支配的見解である(私法義務説は、明治民法時から立法者により唱えられていた)。親の私法上の義務に対応する権利者たる子は、法的権限をもった父母双方から等しく身上および財産上の配慮を受ける権利をもつのである。親の側から見れば、父母双方が平等に子の身上および財産上の配慮を行う義務があるということを意味する。日本法でも、子の養育費の分担義務については親権の有無、婚姻しているかどうかではなく、親子関係の存在そのものから生じるとされていることに、親の配慮義務の本質が顔を出しているということができる。別言すれば、子の経済的監護(扶養)を除く親の配慮義務の有無が、婚姻しているかどうかによって区別するという現行日本法の仕組み自体が、親の子に対する配慮義務という親権の基本構造からずれたものになっている評することができる。義務的権利である親権の特殊性は、その義務を義務であるにもかかわらず、自ら積極的に負うことに人の親としての喜びを見い出す者が数多くいるという点にある。この喜びを優先的に享受することができるという意味では親権は権利なのである。この時の権利主張の相手は、子ではなくて、第三者である。父母の間では、この権利は平等に、したがって共同して保持し、また行使することになるのである。本来、婚姻しているか否かでこの権利構造が崩されること自体おかしいのである。
 私法義務説は、親・子・国家社会三者の関係に関する次のような理解を基礎に置いているといえる。親・子・国家社会の三者は、親と子の関係、親と国家社会との関係、子と国家社会という相互関係に立っている。
 親は、国家社会に対して、子を養育する環境整備、養育支援を求める権利をもつ。同時に、正当かつ合理的な理由なくして国家社会が、子に関する親の監護権、教育権に立ち入ったり、これらの権利を制限しないことを求める権利を有する。親は、国家を含めた第三者に対して、子の性格、特性、心身の調子を最もよく理解している者として優先的な決定権をもっているという限りで、親権は親の権利であるということができる(なお、ここでいう親=父母とは実父母とは限らない。養父母であることもある。事実上の親はどうなるのかという問題もあるが、本意見書の主旨からはずれる問題になるので、ここでは論及しない)。とはいえ、親の権利は無制限、無制約なものではない。国家社会は、親が子の適切な養育を行う意思をもたなかったり、適切な養育を行えないとき、あるいは親が権限を濫用して子の福祉を侵害するときに親子関係に介入する権利(子に対しては国家社会の義務になる)をもつ。この介入には、人がもつ権利の制限は必要かつ最小限にという比例原則が適用される。
 子と国家社会との関係では、子は国家社会に対して、良好な環境で育つ(養育される)ことを求める権利を有する。こうした子の権利に対応する義務を国家社会は負うことになる。このことは児童福祉法が、1条[児童福祉の理念]および2条[児童育成の責任]で規定している。
 親・子・国家社会の三者の関係では、子のみがそれぞれの関係において相手方に義務を負わないことになる。
 こうした三者の関係構造は、子が育つには、その発達にとって、特定の養育者(大人であるが一人に限定されるわけではない)との間に心理学的親子関係が存在することが重要であるという心理学的知見とも合致する。この心理学的結びつき、換言すれば、親子としての絆は、親子相互の働きかけの関係であるから、子にとって愛情を感じて信頼感・充足感をもたらすと同時に親にとっても同様の充足感をもたらすものである。この親と子の相互関係は、子と親双方にとって、侵害されてはならない法的利益である。子の視点から見れば、父母が離婚しても、子にとっては父母双方が親であることに変わりはないということであり、親の視点から見れば、子を養育する喜びが離婚を理由に奪われてはならないということである。家族保護条項をもたない日本国憲法において、この法的利益が憲法13条に基礎づけられるゆえんといえる。
 以上のような構造を根底にもつ親権理解を踏まえると、離婚あるいは認知の場合の単独親権法制の下では、次に挙げるような諸点について、理論的な不整合や未成年の子の福祉を危うくする問題が生じていることが見えてくる。

子どもの視点


2.非親権者で非監護者である父母の一方の親権——継親(連れ子)養子縁組(民法798条ただし書きをめぐって)

 798条の前身となる明治民法843条は、
「養子ト為ルヘキ者カ十五年未満ナルトキハ其家ニ在ル父母之ニ代ハリテ縁組ノ承諾ヲ為スコトヲ得
 継父母又ハ嫡母カ前項ノ承諾ヲ為スニハ親族会ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス」と規定し、「家ニ在ル父母」の承諾を15歳未満の子の養子縁組の要件としていた。原則として父しか親権者になりえなかった明治民法の下で、養子縁組を承認(代諾)するのは「家ニ在ル父母」として、親権の範囲としてではなく、親たる地位を持つ者として父母が代諾権をもっていたが、第2次大戦後の民法改正で、親の資格としてではなく、法定代理人として代諾させるという形に変更した[2]。現行法では、797条1項が15歳未満の子の代諾養子縁組を規定している。15歳未満の子の養子縁組は代諾養子縁組という構成はそのままにして、代諾権者を「父母」から「法定代理人」に変更したものである。明治民法のいう「家ニ在ル父母」がいない場合、15歳未満の子の養子縁組はできないということになるので、その点では、例えば、「法定代理人」が代諾権者になることによって、父母のいない乳幼児のように、まさに養子縁組を必要とする子が養子として養親家庭に受け入れられる道がよりしっかりと確保されたことになる。養子縁組の同意権者(代諾権者ではない)としての「父母」は1987(昭和62)年の特別養子制度の制定に伴って再び固有の縁組同意権をもつ存在として登場するまで、養子法から姿を消すことになった。ただし、特別養子制度創設前でも、養子縁組成立に父母の同意を不要とすることは問題であると指摘されていた[3]
 一方、離婚後単独親権制度(819条1項・2項)の下では、父母が離婚した子の法定代理人は、父母いずれか1名ということになる。ただし、代諾養子縁組が明治民法の下で濫用されて、芸妓養子のように、子の福祉を害するものが養子縁組という形式で行われたことから、未成年養子縁組には家庭裁判所の許可が必要とされた(798条)。ところが、未成年養子縁組でも、「自己又は配偶者の直系卑属を養子とする場合は、この限りでない」(798条ただし書き)として家庭裁判所の許可は不要とされた。自己又は配偶者の直系卑属の養子縁組ついては、家庭裁判所の許可を不要としたのは、このタイプの養子縁組では、明治民法下でのように、養子となる子が食いものにされることはないと考えられたからだという[4]。本条によると、離婚して15歳未満の子の単独親権者となった親が再婚したとき、または、婚外で出生した15歳未満の子の単独親権者となった親が婚姻したときは、前者では再婚相手の配偶者が単独で、後者の場合には、子の単独親権者とその再婚配偶者が夫婦共同養子縁組を家庭裁判所の許可なしに、また、非親権者である他方の親の同意を得る必要なしに養子縁組することができる。
 親権者になっていない親でも、子を監護している者はいる(親権と監護権の分属)。この場合には、15歳未満の子の養子縁組に際して、代諾者(法定代理人)は、この監護者の同意を得なければならない(1987年改正により新設)。また、親権の一時停止(2011年の親権法改正で新設された834条の2)中の親がいる場合にも、その者の同意を得なければならない。
 したがって、離婚、婚姻の取消し、認知の場合に、非親権者で、子を監護していない親は、自らの子が、親権者でかつ監護者である方の親が他の者と婚姻して、子を連れ子として、子の継親と養子縁組することを止めることはできないし、その継親養子縁組を制度の上で知る機会すら与えられていない。
 このような仕組みについては、家庭裁判所の許可からはずしたことについて、また、監護権を持たない非親権者たる親には養子縁組の代諾権は認められないのかということを通じて非親権者の親の権利について問題提起が古くからなされてきた[5]
 離婚や認知等の際に親権者にも監護者にもならなかった親についても、有力な学説には単なる無権利者とはいえないとして理論構成するものが見られる。この学説では、親権者(親権者たりうる資格)と親権行使者(親権を行使しうる資格)とを区別する。前者は権利能力に該当し、後者は行為能力に該当すると構成する。父母は常に親権者で、例えば離婚後や非嫡出子に対して父母の一方が親権を行使するときも、養子縁組が行われて養親が親権者になる(継親養子縁組のときは、実父母の一方とその再婚配偶者とが親権者になる)としても、実親もしくは非親権者とされる父母の一方は、親権者たる資格を保有しており、特別な事情によって、その行使能力を制限または停止されているものと解すべきとする。これを潜在親権とか睡眠親権とする[6]
 非親権者でかつ非監護者について、上記のような理論構成をするのには、潜在親権を前提にしないと説明できない取扱いがあることが例示されているほか、親権者変更制度(819条6項)をその根拠に挙げることもできる。すなわち、819条6項は、子の親族の請求に基づいて、家庭裁判所は、子の利益のため必要があると認めるときは、親権者を他の一方に変更できるとしている。請求権者は子の親族とされているが、変更できるのは、親権者でない父母の一方に決められている。子の利益を保護するためには、例えば、後見人選任という方法も考えられるが、そのためには、親権者の親権が剥奪されている(834条)ことが前提になる。非親権者で非監護者である父母の一方が、私人として行うことが可能な子の保護方法としては、834条による親権喪失にまでは至らないが、子の利益のために必要があるというときに、819条6項の親権者変更制度を利用できる、もしくは、親権喪失か親権者変更かを選択的に利用できるといえる(もちろん、双方の要件は異なるので、常に両者を選択的に利用できるということではなく、仮に834条の要件も満たしているような場合が前提となる)。親権者変更制度で、非親権者でかつ非監護者である父母の一方が、変更される親権者とされているのは、制度的に潜在親権を前提としているとしか言いようがない[7]
 ところが、継親養子縁組が行われると、親権者変更は認められないのが判例法の示すところである(例えば、最高裁判所決定平成26年4月14日・平成25年(許)第26号 市町村長処分不服申立ての審判に対する抗告審の取消決定に対する許可抗告事件)。このことから、すでに継親養子縁組が行われている場合だけではなく、親権者変更の申立てがなされると、継親養子縁組が対抗的に行われるということにもなる(何といっても、届出だけで可能なのだから)。これは、離婚後も含む婚姻外では単独親権とすることが、子の利益、子の福祉を損ねる制度構成につながっているということを意味する。
 継親養子縁組については、非親権者であっても監護者である父母の一方の同意を要件としている。2011年の親権法改正に伴い、養子となる者の父母が親権を停止されている(834条の2)ときも、その父母の同意を得るものとされている。これは、親権停止は2年を超えない範囲で行われ、再び親子統合を目指す制度なので、親権を停止されている間に養子縁組が行われてしまうと、834条の2の制度目的に反するからとされている。本意見書の主張は、これに加えて、非親権者で非監護者である者の同意も必要だとするものである。現在行われている法制審議会家族法制部会では、連れ子養子縁組も含む未成年養子縁組も検討項目に挙げられている。しかし、法制審議会での議論を整理するために行われた「家族法研究会」の報告書を見る限りでは、離婚後共同親権との関連については何も言及されていない。

法制審のことも言及

3.面会交流中の子の面倒見の法的根拠

 面会交流権の法的性質に関しては、日本では、現在においてもなお見解が統一されたとは言い難い状況である。児童の権利に関する条約9条3項(「締約国は、児童の最善の利益に反する場合を除くほか、父母の一方又は双方から分離されている児童が定期的に父母のいずれとも人的な関係及び直接の接触を維持する権利を尊重する」)が、面会交流は子の権利であると明記していても、現行民法766条の文言は、権利条約に即したものにはなっておらず、権利性そのものを認めないという主張も存在する[8]
 ここでは、別居中もしくは離婚後面会交流を行っている最中に、非同居者である非親権者は、いかなる権限をもって子と過ごしているのかということを検討する。
 親権の内容は、大別すると監護および教育権(身上配慮権)と財産管理権から構成されている。監護といっても、(イ)事実上の監護(身辺の監護)、(ロ)[法律]行為的監護、(ハ)経済的監護に細分できる。身上監護、財産管理(財産(上の)監護と言い換えてもいい)には、上記(イ)~(ハ)の要素をもつ監護が重複して関わるものとそうでないものがある。職業許可権のような身上監護は、(イ)と(ハ)が主として関わるといえる。乳幼児の身の回りの面倒見のような主として(イ)のみが関わるものもある。財産管理権についても代理行為を伴わないものと、相続や損害賠償金の受領のような代理行為を要するものとがある。
 共同親権であるか単独親権であるかを問わず、子が父母の一方の下で普段過ごしている場合には、身上監護はさらに細かく分けて考えなくてはならない[9]。①きわめて重要な案件に関するもの(婚姻中であろうと離婚後であろうと共同親権であれば、父母相互の了解・合意を要するもの)、②日常生活で生起する案件で、子が普段過ごす方の親が単独判断する権限をもつもの、③実際の面倒見に関する案件で、子が普段過ごす方の親が単独判断する権限を有するものである。①と②の区分はケースによっては判断に迷う。例えば[10]、父母が別居していて、共同配慮権(共同親権)を保有している、母の下で暮らしている10歳の娘の場合に、a)インフルエンザを抗生物質を使って治療していいか、b)ツェッケン(脳炎・髄膜炎を発症させるダニ)の予防接種を受けさせるか、c)先延ばしすることができる扁桃切除を受けさせるか、d)心臓手術を受けさせるか、という場合、a)は日常生活で生起する案件であり、d)は、きわめて重要な案件であるということはわかる。しかし、b)やc)は極めて重要な判断を要する案件かは分明ではない。面会交流時には、上記③の実際の面倒見に関連することは常に起こる。②の日常生活で起きることに判断を下すということは、そういうこともありうるかもしれない(面会交流中に遊園地の遊具から子どもが落ちて負傷したというようなとき)。
 いずれにせよ、現行法上、非親権者でかつ非監護者である親は、面会交流中、身上監護権を行使していることになる。このときの法律構成は、面会交流時には親権のうち身上監護権が復活するというのだろうか? ここでも潜在親権論に立って、面会交流時には、身上監護権が顕在化するというのだろうか? 潜在親権論は、親権があるという分類になるのか、ないという分類になるのかと問われれば、「ある」の範疇になる。非親権者で非監護者である者にも、実は親権は「ある」ということになる。そうすると、単独親権といいながら、非親権者にも親権があるということを前提にしないと論理構成できないことになる。

潜在親権論


4.離婚後共同親権制度不存在の違憲性

 これまで見てきたように、父母が婚姻していなければすべて単独親権という現行の親権制度については、離婚に伴い単独親権なのだけれども、非親権者でかつ非監護者にされている親にも、実は親権がないわけではなくて(親権は保持しているのであって)、それが潜在化しているだけなのだという法律構成が有力な学説によって行われてきた。これは、そうでもしない限り、現行制度の整合性を説明できないためであった。
 離婚後単独親権になるということのすべてが、子の利益・子の福祉に反するというわけではない。しかし、離婚後はすべてが単独親権でなくてはならないということになると、話は違ってくる。
 民法766条は、1項で、協議離婚をするときには、子の監護をするべき者、監護費用の分担、その他の子の監護についての必要な事項は、父母の協議で定めるとしている。この監護は、第三者に委託するという形も認められる。では、共同監護はどうであろうか。例えば、現行750条の制約がある一方で、子に嫡出性を付与したいために婚姻し、子の出生後に旧姓使用のために離婚したが、父母および子が同一家庭で共同生活を営んでいる場合、離婚の際の協議で共同監護を取り決めることは可能であろう[11]。この時の権利関係はどのようになるのだろうか。潜在的にはともかく形式的には、親権者は父母の一方となる。監護については、同等の権限を有する(共同監護)のだから、親権と監護権の単純な分属というわけではない。100%の監護権を親権者たる親と非親権者たる親が保有するということになる。これは、共同監護とはいえるし、このような取り決めを行うこと自体は、可能である。この父母が監護権の共同だけではなく、共同親権を求めた場合に共同親権を認めないということに合理的な理由があるのだろうか。以下検討を加える。
 単独親権(親の配慮)法制をとっていたドイツでは、連邦憲法裁判所が、親の配慮を共同で行使する能力とその意思がある離婚したカップルに共同配慮を認めないのは、基本法(憲法)違反とした[12]
 日本法は、婚姻中の父母にしか共同親権を認めないが、上述のカップルにとっては、離婚後全てのケースで単独親権というのは、社会的機能としては、離婚に対する制裁的意味合いを持つことにもなりうる(親権を父母双方が保有したいと言いながら、婚姻しないお前たち自身が悪いのだ、親権が欲しければ婚姻しろというように)。子が成年に達するまでは離婚しないでおくという事例の中にも、これに該当するものがありうる。
 離婚する夫婦(父母)には、離婚後共同親権、共同監護を行う能力、必要、意思のある者がおり、そうした父母が離婚後も共同親権であり続けるのが子の最善の利益にかなうケースが存在する。父母のうちどちらか一方のみを親権者とし他方は非親権者としなければ(つまり、共同親権のままであっては)離婚が認められないのが現行法である。この制度の下では、子にとっても、父母自身にとっても、父母が婚姻しているかいないかという社会的身分による差別的取扱いを受けることになる。
 現行制度の下では、当事者が合意したとしても、父または母のどちらかは、親権者になることができない。父母が婚姻していない(未婚でも離婚でも)子は、共同親権者をもつことができないというのは、婚姻中の父母をもつ子と婚姻していない父母をもつ子を差別的に取扱っていると言わざるを得ない。2013(平成25)年法94号による改正前900条4号ただし書きの違憲性を判断した最高裁判所平成25年9月4日大法廷決定(平成24年(ク)第984号・第985号:遺産分割審判に対する抗告棄却決定に対する特別抗告事件)は、その理由3(4)で、900条4号ただし書きの合理性をめぐって、「子にとっては自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由としてその子に不利益を及ぼすことは許され」ないとしている。このことは、父母離婚後の子が共同親権者をもてないということ、父母が婚姻していないと子は共同親権者をもてないということにもあてはまる。父母が婚姻しているか否か、離婚しているか否かで、子が共同親権者をもつことができないというのは、婚外子(非嫡の子)、父母が離婚した子という社会的身分による差別的取扱いに該当し、憲法14条1項に抵触すると言わざるを得ない。
 他方、親の立場からすると、親権者になりたくてもなれないのは、父の場合もあるし母の場合もある。父母のうち父のみがとか母のみが親権者になれないというわけではないので性別による差別的取扱いが制度的に行われているわけではないが、どちらかは必ず親権者になれないのである。これは婚姻しているかいないかという家族法上の身分に基づく差別的取扱いで、その上、この取扱いは、本意見書で例を挙げて述べてきたように、実質的に親としての地位自体を侵害するものである。そうすると、子にとってのみではなく、子の父母にとっても、婚姻しているかいないかという社会的身分による差別的取扱いを、現行民法の離婚・認知の時の単独親権制度は規定していることになり、憲法14条1項に抵触する。
 以上のような婚姻しているかどうかにより親子関係に関する権利義務関係を差別的に取り扱う制度を法制度として認容し続けることは憲法24条2項に抵触する。
 親権は子に対しては義務的性格をもつものであるが、対第三者に対してはあたかも財産法上の所有権に比肩する効力をもつ(例えば、子の引渡し請求権)。日本の現行制度では、父母の一方は、離婚するとこの権利を喪失することになる。子の視点から見ると、父母2名の法定保護者が、父母が離婚すると選択の余地なく、自動的に1名に減員される。共同配慮法制を採用したドイツ法では、単独親権とするには、BGB1671条に基づき、父母は一時的でない別居をしているときに、親の配慮の全部または親の配慮の一部を、自分に委ねるように家庭裁判所に申し立てることによる(同条1項)。この申立ては、①申立てを行ったのではない他方の親が同意したか(ただし、子が満14歳に達しているときは、親の配慮の一方への委譲に反対していない場合)、②親の配慮を他方の親に委譲することが子の福祉に最も良く合致するときに認められる(同条2項)。そのほかに、家庭裁判所が職権で親の配慮権制限(親権制限)を行った場合である(BGB1666条)。ドイツ法は、このように、単独配慮(単独親権)は認めるが、それは、子を含む当事者が同意するときか、配慮権者の配慮権が制限されるときである。これは権利論の視点から見ると権利(ここでの権利は離婚後の親権ということになる)制限は、必要に応じて最小限のものでなければならないという比例原則に関わる問題である[13]離婚すると、当事者の意思も問わず、また、民法766条により共同監護という監護方法を取り決めることができるにもかかわらず、自動的に父母のうち一方の親権が失われる離婚後単独親権制度は、権利制限という観点から見て、現在においてはもはや比例原則に違反する制度になっているということができる。

非婚差別



[1] ここでの条文訳は、髙橋和之編『新版 世界憲法集』岩波書店、2007年、168ページによる。

[2] 中川善之助責任編集『註釋親族法(上)』有斐閣、1952年、374ページ。

[3] 例えば、我妻栄『親族法』有斐閣、1961年、274ページ。『新版注釈民法(24)親族(4)』有斐閣、1994年、248ページ(中川良延)。

[4] 前掲(注2)『新版注釈民法』248ページ。

[5] 例えば、我妻前掲(注2)『親族法』274ページ。石川稔「継親養子縁組と親権者の変更——非親権者たる親の権利と代諾権」『上智大学法学部創設25周年記念論文集』1983年、141ページ(本論文は、石川稔『子ども法の課題と展開』有斐閣、2000年、264ページ以下に所収。以後引用は、同書による)。

[6] 於保不二雄「父母の共同親権と親権の行使者」全国連合戸籍事務協議会編『身分法と戸籍』1953年、帝国判例法規出版社、167ページ、『新版注釈民法(25)親族(5)[改訂版]』有斐閣、2004年、13ページ(山本正憲)。

[7] 同様の問題意識をもつものとして、川田昇「親の権利と子の利益」『親権と子の利益』信山社、2005年、6ページ、特に7ページ(初出は、谷口知平ほか編『現代家族法大系3親子・親権・後見・扶養』有斐閣、1979年、227ページ)。

[8] 学説の整理や近時の判例の動向については、栗林佳代「離婚後の親子の交流(面会交流)の保障 子の権利・利益の観点から」二宮周平編集代表『現代家族法講座第2巻 婚姻と離婚』309ページ以下を参照のこと。

[9] この区分は、明文をもって民法に規定しているドイツ民法(1687条)の類型化を参考にしているが、同じことは日本法でも当然考えられなければならない。

[10] Schwab,D., Familienrecht, 28.Aufl., 2020, C.H.Beck, S.410, Rn.925.

[11] 古い文献になるが、我妻前掲(注2)142ページ以下が示す離婚後の監護形態は、監護者が指定されたときは、自動的に親権者が別にいるという類型と父母以外の第三者を監護者に指定するという類型であって、父母が同時に監護者になるという類型は考えられていないようである。

[12] 詳しくは、大森貴弘「翻訳:ドイツ連邦憲法裁判所の離婚後単独親権違憲判決」常葉大学教育学部紀要38号、2017年、409ページ。ドイツ法の立法的推移については、鈴木博人「ドイツ1」(別居・離婚をめぐる親権・監護法制の国際比較)財団法人日弁連法務研究財団離婚後の子どもの親権及び監護に関する比較法的研究会編『子どもの福祉と共同親権 別居・離婚に伴う子どもの親権・監護法制の比較法的研究』2007年、日本加除出版、129ページ。

[13] 比例原則は、ドイツ警察行政に発する原則であるが、ドイツ民法は、比例原則を家族法に明文をもって規定している(BGB1666a条)。比例原則は、日本法でも、「法治主義に根拠を有する不文の法として定着し、それが、現行憲法の下でも引き継がれていると解されて」いる(塩野宏『行政法Ⅰ[第6版]』有斐閣、2015年、93ページ)。


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