プペル余韻に浸りつつ,共同親権
2020年最後の日曜日であることが信じられない
プペルの余韻にはまだ浸っていたくて,#えんとつ町のプペル の絵本が入ったクリスマスボックスが届いたお子さんの様子などを見かけると,ああ,本当にサンタクロース🎅がいてよかったな~としみじみ思うし,他方,サンタクロース🎅になった方も幸せを感じているのだと知って,心あったまる
親子に優しい世界へと変わっていくことがわかる
とある記事から,noabduct様に想い馳せたり
I'amPoupelleプロジェクトサイトには,サポーター一覧とともに,クリスマスボックスを受け取った子ども側の様子が一気にわかる
今日も,読み聞かせしながらも,涙がこらえきれず・・・付き合ってくれるのは娘だけだけど・・・これ,ママが何のお仕事をしているのか,を伝えることにも役立つかもしれない
いつもお仕事頑張ってくれてありがとう,と言ってくれる娘だけど,何をやっているのかはわかっていない様子・・・
会いに来てくれたんだね父ちゃん
これを
すべての子どものために
そのために,お仕事しているのだ!!子どもは平等だ!!!
そんなプペルな毎日だからこそ,今日公開された記事には,意見される方がちらほら見られる中,コメントしてしまった
そういうわけで,繰り返しになるが,冒頭のサムネイルになる
先日参加したシンポジウムのもの
あえて,イメージに頼ったスライドになっている
詳しいことは,裁判所に提出された書類を読み解いていけばいい
それをやったのが,12月10日での院内集会だったけど,眠気こそ誘いながらも,参加者・当事者を置き去りにしてしまったのではないかと懸念を覚え,イメージで簡略に伝えることとした
本当はアニメーション付なので,静止イメージでは限界もあるだろう
10分とはいえ口頭での解説で補充する必要があるものだけど,ひとまずシェアしたいと思う
大切なのは,子どもを独立した人格として尊重し最大の配慮を尽くした上で,親同士も個人の尊厳が対等に保障されるということ,それこそが・・・
共同親権制
共同親権を選択できる国の全てが交代監護をしているわけではなく,五分五分の分担が現実的ではないことは物理的に考えられ得る・・・しかし,権利の尊重という理念においては,父母は対等であることという配慮を尽くすことは考えられる
親権者・非親権者という概念を超えて,親であることを尊重し,親子らしさを守っていく・・・当然,会うことは自由だ
親子なんだから
それでいい,それだけでいい
恐らく民法が単独親権制を定めつつも,親子であること自体は生涯続くもの(相続や扶養はある)ということを前提としていたはずだ
しかし,高度経済成長うんぬんというのを経た現代において,これほどまでに,教育活動が経済的にも生活的にも重視され,個人情報保護や学校の組織としての管理体制等とあいまって,親権者であることが重きを持つことは想定されていなかったと思われる
せいぜい,子の氏を変えるときや,養子縁組を承諾するときくらいで,その他養育そのもは親権者かどうかはともかく,親族含めみんなで子育てするものだし,しかも,とにかく衣食住が満ち足りていけばいいのであって,細かい教育方針が軋轢を招くということも考えにくかった
まさか,親子が会うのに,面会交流という呼ばれ方をして,裁判所での手続きを経ないと実現しないこともある,経ても実現しないこともある,実現するにしても,まるで監視されるような支援機関を利用して,場所や機会,時間の制約を受けることがある,高額な費用を負担しなければならないことがある,支援機関選びにも揉める,なんてことが起ころうとは,どうして予測できたであろうか
これだけおかしなことになってしまっていて,単独親権制はもう維持できない
それだけのことである
選択的だとか原則が,とかそういうことではない
離婚時に親権者を指定しなければならない,指定しさえすればその他の協議は義務付けられないし,協議したことが守られなくてもあまり問題にならない,ということ自体が時代にそぐわなくなっている
両親からの養育が権利として保障されていない子どもがさらされるリスクについて改めて説明するまでもないことだろう
養育費だけでは,肌のぬくもりを含めた愛着形成の機会を得られるとも限らない
共同養育は親としての責任であり,両親双方が子どもに対して背負うものだ
だからこそ,子どもの権利であり,社会は,この権利が実質的に保障されるよう仕組みを整える必要があるし,それは,子どもの権利条約を批准している国としての義務でもある
生活状況において,生活時間を共に過ごす量の多寡があるのかもしれない
それにしても,だ
子どもにとって,親とは,父と母の2人それぞれが対等に存在している
別居親と同居親というカテゴリーに分断しない
両親双方が,親というだけだ
どちらかが養育の実働だけ担ったり,どちらかが養育にかかる費用の負担だけをするというものでもなく,双方が,養育し費用も分担する,それだけだ
そのための協議を実現する仕組みや支援を整える責任があるのは社会であって,個人ではない
そもそも,別居に当たって,了解がなかったり,騙し打ちするようなことが許されているようでは,その後に円滑な協議が実現することは困難となるだろう
それを,前から,連れ去り毒と呼んでいる
おそらく,一言ゴメンがあれば,監護体制,その後の共同養育協議を円滑にすることが叶うこともある
一方的な被害意識がそれを難しくすることがあるのも現実だが,目指すものが真に子どもの権利に資する共同養育という理念があるならば,連れ去らない,連れ去りを正当化しない,ということも,今後求められなければならないと思う
それはきっと,親子に優しい世界に変わったとき,意外に実現するかもしれない,ということをプペルを通じて感じたりもした
共同親権になっても別居親は「子どもに会えない」?
このタイトル自体に,ともすれば嫌悪を覚えてしまう
タイトルは続けてこういう
共同養育ができる親の“資質”とは
共同親権制の理解を欠くのではないかと疑ってしまう
そして,もし,この資質を「別居親」だけに要求するというのであれば,それ自体が重篤な人権侵害であることがわかる
子どものために,親双方が学びながら,合理的な選択ができるよう社会の仕組みを整える必要があるだろう
共同親権制の意味はそこにある
モラルハザードを許すことを放置しない仕組みの中,親だもの,精いっぱい子どものために頑張ることだって自然と選択していくものと確信している
ところで,必死にプペルを応援していたときのクリスマスイブの日
ルルーシュ様が降臨されていた
魔人なのですね
じっくり勉強させていただきます
恩送りよろしくお願いいたします。
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