解説編⑥ 会えない秘密
養育権侵害を主張する法律構成を分析している。
現状の制度では、養育権を調整していないため、不合理な侵害があることが判明している。そのつづきを検討していく。
(4) 養育権に関わる判断の評価基準が設定されていないこと
前記のとおり、単独親権制度における父母の養育権の調整機能は親権者の指定及び子の監護に関する処分の決定である。しかし、これらの判断のために裁判所に与えられた判断基準は、「子の福祉」「子の利益」の一言である(民法766条、同法819条)。これは司法の役割を超えた無理のある基準である。いかに家庭裁判所が後見的な機能を有するとはいえ、あくまで、立法府によって制定された法律の解釈・運用の範囲の中で行うものである。「子の利益」「子の福祉」などというその内容も不明確で価値観によってあまりにも幅のある基準は、司法の役割との関係では基準ですらない。さらにいえば、価値判断の主体を曖昧にしたままの絶対的な子の利益判断、いわば裸の「子の福祉」判断は、親子の自然的関係を侵害する危険な枠組みであるともいえる。本来、前述の学テ判決の論理などからすると、積極的な意味での「子の福祉」は判断権者である親の評価を通じてしか存在しないはずである。たとえば、虐待など親の養育権の逸脱事例においては、子どもの人格権保護という意味において消極的な意味での「子の福祉」の形は判断しやすい。一方で、子がどのように生活し、どのような教育を受け、誰と関わっていくか、などの積極的な利益判断については、子の利益は一義的ではない。だからこそ、親がこれを評価し判断していくのであり、司法の役割との関係では、親の養育権を最大限の尊重する形で調整していくことこそが「子の福祉」なのである。この意味で、親の養育権の調整の役割を果たす司法判断において、「子の福祉」が何らの基準になっていないことは明白である。養育権調整のためには、せめて、いかなる要素を考慮すべきか、反対にいかなる要素は考慮してはならないのかを、国民の意思を反映した立法作用により定めていくのが本来的な姿である。
子どもが生きていけそうであれば現状を放置する。要はそういう姿勢だったということだ。その結果、現在の日本の現状は、子育てのしづらさが顕著であり、少子化は歯止めなく、急進している。子の貧困問題も深刻だ。司法が救ってこなかったのだから、やむをえない。そういう制度設計を立法府も放置してきたのだ。
#共同親権 のある国は、それが社会政策として重要であることを受け止め、予算をかけて仕組みを整えてきた。世界の各国がそうである。アジア諸国ですらそうである。日本だけ、何をしていたのだろう。学びうる素材があふれているのに、なぜか未だに何もしていないのだ。
何をすればよいのか、すでにヒントはある。
例として、平凡社出版、コリンP・A・ジョーンズ著『子どもの連れ去り問題』初版の142頁からの記述を引用する。同書には、「カリフォルニア州法では、裁判所が夫婦別居後の子どもについて判断するにあたって「子どもの最善の利益(best interests of the child)」は何かということが基準になっている」「カリフォルニア州の場合、まずは総則規定として、州立法府の明確な意思表示がある「両親が別居し、婚姻関係等を解消した後に、子どもが双方の親と高頻度かつ継続的な接触を持つ子の確保並びに双方の親による子どもを養育する権利と義務の共有を促進することが本州の政策である」(カリフォルニア家族法典第3029条(b))」との記述がある。この総則の存在だけでも、子どもの最善の利益の中身が示されている。さらに、同書によると、カリフォルニア州法では、親権(監護権)者の選定基準も明記しているようである。同書に記載されているものを一部挙げると、「親の性別を判断基準にしてはならない。」「裁判の時点でどちらの親が子どもと同居しているかということを判断基準にしてはならない。」などである。ここには、まさに日本が陥っている内容が含まれている。上記をみると、日本の現状の運用は、日本や日本の裁判官が特殊で異常ということではなく、判断基準が曖昧な中で誰しもが陥りやすい判断がなされているだけであるということが分かる。とはいえ、ここで述べたいのは、何もカリフォルニア州の規定が絶対的に正しいとか十分であるということではない(このことは同書の著者自身も述べている。)。子の福祉という曖昧な基準はそのままでは親子関係を保障するための基準にはなりえないことである。子が双方の親から養育を受ける機会が与えられるためには、当然親の養育権が対等に保障され適切に調整しなければならないところ、そのためには、知恵によって生み出された適切な「仕組み」が必要なのである。
しかし、日本では判断基準が一切存在しない「無法」状態であるといえる。法の欠缺の中で実際に養育権保障とはほど遠い裁判実務が存在する。以下実務の傾向を述べる。
子の利益とは何か、定義を明確にすること。
その実現のための判断基準、考慮すべきこと、考慮すべきでないことをクリアにすること、そういった「仕組み」が必要であるのに、日本は、無法状態。たしかに、ハーグ条約批准5周年シンポジウムで会場からの「子の利益とは何か?」との問いに、主催者は明言できていなかったことを思い出す。何かをわかっていないのに、「子の利益」をふりかざす。その結果、子どもの権利条約を遵守しているとはいえない実態を招いている。
どういう裁判実務になっているだろうか。
ア 争いのある親権者・監護者指定の手続においては、双方の親の養育に関する基本的な方針が対立しているのであるから、親がそれぞれ積極的な子の利益を打ち出している場面である。この場面では、双方の親の打ち出す積極的な子の福祉に関わる方針を最大限尊重する形で調整することが肝要である。しかし、前述のとおり何らの判断基準が存在しないためか、親権者・監護者の指定の場面では、現状の監護状況について監護親に明白な養育権の逸脱状況ない限り、現状を維持するという極めて消極的な判断を行っている。別居親の方針は対等に比較されることがなく、その養育権はないがしろにされている。
これは現在の養育権に関する立法の欠缺からくる当然の帰結といえる。裁判所は、父母の養育能力がいかなるレベルにあっても、離婚や非婚で父母の協議が整わない限り、必ず一方の親権を否定し、一方を親権者に指定しなければならない。これがたとえば、父母の一方だけが親権停止事由にあたるような養育能力に問題がある事例であれば、裁判所の指定は適切に機能するかもしれない。しかし、現実にはもちろん、父母の能力が双方ともに問題のない事案(基本的にはこの事案が多数を占めていると思われる。)もあれば、逆に父母双方ともに養育能力に疑問のあるケースもある。このような場合、特に前者の場合、裁判所はどう対応すればよいのか。親の養育に関する判断や方針を何らの立法による指針もないまま第三者が絶対的な視点で優劣をつけることができるわけがないし、また、これを国が行うこと自体養育権に対する侵害である。だから、現在の親権者指定実務は、現状監護している親に大きな問題がないという消極的理由でその親に親権を認め、反射的に他方親の親権を奪うという運用が行われているのである(なお、ややこしい話をすると、現場の裁判官は以上のような現状維持判決が生じるメカニズムを理解せず慣習のように判決を出していることがあるため、実際は消極的に現状維持の判断をしているにもかかわらず、現状維持を表向きの理由とすることを避けるために、判決理由において別居親の養育判断に不当に介入しこれを否定する内容の離婚判決がままみられるという、捻じれた現象も起こっている。)。
そうであれば、離婚を希望する親は親権を得るためにどうするか。たとえ、自身の養育能力に問題がなくても、他方親に一定の養育能力があれば、自身の親権は危うい。ましてや、先に自身だけが別居をし、配偶者の監護が「現状」になってしまうことは避けなければならない。そのため、養育能力の対等な比較を避けるために、先に子を連れ去って別居し、自身で単独監護を開始してしまうのである。
現状のように判断基準があいまいなまま、司法にその役割を超えて、いわば無茶な親権者指定を任せていることが、子の連れ去り行為、すなわち、他方親の意思に反して子がそれまで暮らしてきた居所を一方的に変更する行為を助長しているともいえる。
#連れ去り天国 という非難を国内外から浴びる国である。
法務大臣も承知しているという。
その背景にある実情が見えてくるし、立法府にこそ責任があるのだ。
イ 一方で、面会交流の手続は、親の養育権の行使が妨げられている場面(親子関係が阻害されている場面)であるから、基本的に親子関係を回復することこそが養育権の調整である。その結果、子の福祉が実現されるだけである。しかし、面会交流事件の実態は、なぜか裁判所の判断が積極的になり、面会の実現、拡張を求める親の人となりや行動などを、絶対的な視点から評価を下すようなことが行われている。前記親権者・監護者指定の例と比較すると、養育権を喪失又は制限する手続においては、特に現監護者の方針や実績を精査すべきであるにもかかわらず(ただし現状の立法ではこの精査の指針が皆無であることは前述。)この判断を極めて消極的に行う一方で、なぜか、父母の養育権を両立させるだけの手続においては別居親の人となりのような部分まで積極的に介入してしまうという不公平なことが行われているのである。ここは完全にチグハグな運用といえる。また、裁判実務においては、面会交流を制限する事由として、父母の葛藤があげられることがある。このような考え方は共同監護や面会に否定的な親にとって葛藤を軽減するのと真逆の行為規範となってしまう。
以上の面会交流事件に関する裁判所実務は、面会交流を、「面会」という言葉故に、単に親子が「会う」という狭い認識で捉えているのではないか。子が月に1回一緒に住んでいないお父さんかお母さんと出かける、くらいのイメージである(実際はこの程度のことも裁判所で確保してもらえない別居親子も多数いるが。)。しかし、面会交流は、子の監護(養育)に関する事項である。親子の養育関係は、親子が「会う」ことではない、親子が親子として「いる」ことである。親子として一緒に「いる」状態は一様ではなく様々であるが、基本的な形態は複数の日に渡って親子が寝食をともにすることではないか。月に数時間のお出かけでは養育関係とはいえないだろう。現在の面会交流実務は、この点の基本的認識がない。面会交流が親子関係に基づく子の養育の問題であり、双方の養育権を適切に調整するものであるが、この役割についての認識がないのである。これは、判断基準についていわば無法状態であるがゆえに、そもそもの手続の意義すらも曖昧になったまま、考慮すべき事項と考慮すべきでない事項の区別なく場当たり的な運用になっているからであるといえる。
当事者以外の国民は、まさか、そんなことがあるはずない、と感じるだろう。難関の国家試験を突破したエリートたちが集う司法機関が、ちゃんとやってくれるはずだと信じているし、疑う機会もなかっただろう。
だが、ひとたび、当事者になって家裁の運用に直面した方であれば、上記に表現される運用をよく理解するはずだ。愛するわが子を大切に成長を見守りたいだけなのに、なぜ会えない。ひたすら理不尽に感じている状況の秘密を表現しているものと感じられるのではないだろうか。司法のチグハグな運用。何かおかしいと感じていたが、そこがおかしかったのだ。
司法に無理をさせている。立法府の責任なのだ。怠慢の罪は重い。
ウ 以上裁判所の判断の傾向を述べた。個別事案だけをみても、養育権保障・調整の視点を欠く判断は枚挙にいとまがないが、それにもかかわらず、曖昧な「子の福祉」を表面的な理由としているために、個別的事例だけをみれば判断理由がもっともらしくみえてしまうこともある。ただ、全体の裁判傾向を、養育権保障(親子関係保障)、行為規範等の観点からみると、その判断は場当たり的でいびつなものとなっていると言わざるをえない。
ここで、付言しておきたいのは、裁判実務にかかわる裁判官、家庭裁判所調査官、調停委員等が、必ずしも、親の養育権を侵害するという悪意をもって実務に臨んでいるわけではないことである。むしろ、親に対しても子に対して善意で臨んでいる方が多いと思われる。それでも、全体として、前記のような養育権保障・調整とは程遠い実務が存在してしまっている。
これは、そもそも、親権・監護権の指定、子の監護に関する処分の判断について、立法の内容が実質として何らの判断基準を司法に与えない、司法の限界を超えてしまっているところに根本的な原因があるのである。
この理不尽な状況をどんなにおかしいと声を大きくしたとしても、「個別の事情があるのではないか」と見られるがために、その声は封殺されてきた。
「別居親」に対する偏見が増長されると、当事者も冷静ではいられなくなる。事後的な悪態によって、奇しくも、「個別の事情の疑い」を裏付けてしまう悪循環に陥ると、ますます会えなくなる。
聖書には、「右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出しなさい」なる記述があるそうだ。まさに、これか。
「わが子と分離されたら、会うことも諦めなさい」
裁判所は実際に、そうする。
そして、いつか救われるのかと思いきや、そのまま、一生の親子断絶になりかねないのだ。
恐ろしい国である。
これが、誰にでも起こりうる。今や男女問わない問題なのだ。
このまま放置したらどうなるだろう。
今は親権を得て息子と暮らしている母がいたとして、将来、その息子が結婚し孫が生まれたとして、その孫と会えなくなる事態は簡単に訪れるのである。
共同親権のある国は、祖父母らによる自然の情愛を尊重し、面会交流権を肯定するが、日本は、権利がない、という。一度会えなくなった祖父母は、孫に会うことを要求する権利すらないのである。
一方で、6ポケットを独り占めして愛される子どももいるだろう。
子どもの格差の拡大が止まらない。