先に連れ去れば良かったのか
もう3年経ってしまった
私は、縁あってその高裁判決を傍聴することができた
その前年、画期的な判決が松戸支部であったというニュースにより業界が沸いていた
当事者界と同業者の界隈では沸き方が違うかもしれないけど、とにかく話題になった
未確定時期の2016年夏には、フレンドリーペアレントルールに関する取材を受けてコメントが掲載された
民法766条が改正されて数年、裁判所が変わりだしたのだと誰もが期待したのだと思う
しかし、結末は逆転し、父親の苦悩の言葉が今も鮮明に残る
ひとつの離婚事件が報道されること自体が珍しい
新聞にもテレビでのニュースにもなっただろう
だから、この国がどんなルールになっているか、知ることができたはずだ
2017年以降に結婚したり、子どもを育てているのであれば、誰もが同じ危険にさらされていることを知ることができたはずなのである
苦悩する父親を他人事に過ぎないと気づきもしなかったのではないか
別居親の立場で寛容性を主張しても通らなかった
であれば、先に連れ去れば良かったのかという答えにたどり着くのも当然である
その事件は決着してしまった
でも、他の家庭では、できることがある
先に連れ去れば良かったのか、と教えてくれているのだ
どうして躊躇しているのだろう
どうして、連れ去ったあとの行動が、現に別居親子の面会交流に不寛容な同居親と同じ思考に陥るのだろう
連れ去って、寛容性のある監護計画構築の主導権を握らない限り、子の利益の実現は不可能であることが確立しているのに、行動を躊躇している内に後手になってから、何ができるというのだろう
当該事件においては、別居親の寛容性の主張は重視されることなく決着してしまった
だからといって、寛容性そのものが意義を全て失ったわけではない
協議離婚の依頼で、寛容性の実現と付きまとう不安の解消という課題を克服するための需要があり、実際、サポートすることで、共同監護を合意する離婚が早期に成立したケースがあるように、寛容性への理解は、夫婦関係に悩む子育て世代を救う鍵になっているのは、今も変わらない
連れ去り規制がない、今だからこそ、離婚や別居の予感がある場合には、なるべく早く子の単独監護を開始することが望ましい
連れ去りという非難を受けるかもしれないが、躊躇しているうちに後手に回れば、およそ回復困難な事態に陥りかねないからこそ、非難を覚悟しなければならない
そうして、本当に共同養育の理念があるのであれば、子の監護の主導権を握りながら、共同養育体制を構築し実施していけばいいのである
連れ去られた後に、相手に寛容親に変わることを願うよりも、自身が単独監護する覚悟をもって行動することがなければ、せいぜい面会交流ができる程度の関係でいいのだろうと甘く見られるということだ
そして、実際、それを受け入れるケースも多いのだろう
反対派が目立つから阻まれているのではなく、まだまだ、父も母もといったって、単独監護を全うする覚悟に性差はないだろうか
気づけば自由時間も多く、家庭という重責から解放されて生きやすさすら覚えることができると気づくと、別居親天国が待っている
そこそこの面会交流を肯定することしかしない裁判所がそれを許している
時間もお金も自由のある別居親が、たまに会うことで子育てをした気になれる一方で、単独監護親の暮らしは文字通り綱渡りそのものである
自己責任という言葉で突き落とされ、人生を這い上がるには困難に囲まれた状況に陥っていく
この真実を見極めたとき、社会は、共同養育を選び、そして、共同親権制を造るだろう
単独監護する能力も覚悟もある父親が先手の行動を始めていけば、ようやく連れ去り規制が導入されるか寛容親による共同養育が推進されていくかのどちらかということになる