共同親権・共同監護実践に大切なこと
noteが進化して、canva以外にトップ絵をデザインできることができるようになって、ちょっとお試し中
政治のことはよくわからない
当たり前の法整備と思えば、あまり政治に振り回されること自体が望ましくないように思う
家族法研究の世界では、答えを出しているのに、弱腰なことが残念だし、これまで、大企業とか、医療機関による人権侵害が起こったときに、司法機関が機能して是正してきたことがあったのに、この問題は、司法機関が差別している問題ゆえに、深刻がすぎる
かといって、やれることは限られているので、いちマチ弁として、目の前のことをやるしかない
政治的な主張とは距離を置かざるをえないので、共同監護計画なるキーの位置づけも若干ズレてしまうかもしれない
共同監護に必要不可欠なもの
戸籍時報に掲載もしているけど、元々、有料記事で紹介した、共同監護実践解決例を参考にしてみる
共同監護計画書作成は必須ではない
かといって、決して、円満・関係性修復父母に限定されるわけでもない
どういうことだろうか
この前、要綱案をチェックした
父母が共同親権となって対等に子の養育に関与することとなった場合に、想定しておくべきなのは、対等な父母の意見が一致しない場合の解決方法である
⇓
あらかじめ、何事においても優位に立つ親を決めておく(監護者指定)という方法もありえる
そんなことをしたら、共同親権とはいっても、事前事後の情報には触れられても実質的な決定権を父母の一方が常に否定されるわけで、共同親権といいながら、ナンセンスであることは明らか
監護者指定必須案は消えて行っている
とはいえ、だ
とにかく会ってよく遊べるのであれば、そう、教育方針にこだわりがなく、一方の親の決定に委ねてよい、というような親(決して無責任というわけでもない)もいなくはない
それが、父母間の紛争化を回避できるのであれば、
それはそれでよいのではないか
とはいえ、それは監護者指定をしてよいこととは異なる
一生懸命子どものために思ってはいても、状況によっては、子どもが親の想いとは異なる気持ちで生きる道を選ぶことはある
そこは、親VS子ということが起こりえるわけで、そんな中、親としては、より良い選択に向けて子を導く努力を尽くすこともあるだろうけど、時に、迷うことも起こってしまう
教育虐待と呼ばれる現象を想えば想像しやすいだろうけど、親VS子の密閉空間が好ましくない事態に至ることは起こりうる
もう一人の親が鍵となる
親はそれぞれ、子の最善の利益に配慮して親権を行使するわけだけど、より実り豊かにそれを実現するには、双方の親が多角的に検討・調整してこそ、ということになっていく
他方親の拒否権も子の利益のために
やはり、それが子の最善の利益に役立つことが想定できるわけである
でも、まーいつもいつも家裁に持ち込め、というのもナンセンスである
あらかじめ、調整方針を見定めておくというのが、共同監護計画の役割というわけだ
この意義を見失いながら、共同監護計画策定義務付け、だけが泳ぎ出したところで、文化として定着していない以上、障壁となるのがオチである
何のための共同監護計画か
父母の紛争回避
離婚する父母にとって、単に争わないという理念だけで、なぜ離婚を検討するだけの関係性に陥っているのか、不仲の原因・紛争の存在自体に向き合うことを避けてしまうと、たとえ、何らかの取り決めをして、離婚後の子育てを始めたところで、究極的には、紛争が潜在していることが共同監護を実施する上でのストレスとなりかねないのである
財産分与や慰謝料など、時に、専門家の法理論を駆使して解決しなければならないこともあり、これを、「争いたくない」という信仰だけで、軽視してしまうことは、侮ってはならない
慰謝料の支払いがない解決をしたところで、元々慰謝料請求権があってそれを放棄したのか、そもそもその請求権が発生していない・あるいは少額にとどまるのか、スタートがズレていると、最終結論への”気持ち”にもギャップが生まれる
無理をしてしまうと、後々の関係性に影響を与えかねない
譲歩してやったのに⇒期待が紛争の火種に
時に、父母間の紛争を乗り越えて、ある種の信頼関係に至る例もあり、夫婦になりたてのときのらぶらぶ♡とは違うけども、最低限の信頼と尊重をもって、子育てを分担することに成功することはありうる
そういうケースにおいては、そうは細かい共同監護計画の策定などなくても、うまいことやれる
そこまでの関係性にはなくても、基本的な子育ての分担の仕組みを確立する意味と、もし意見が対立した場合の解決方法を定めておく意味での、共同監護計画は、紛争回避に役立つという意味ではとても有意義である
紛争回避のコミュニケーション
べたべたと連絡のやりとりが密にあるわけではない
最低限の事務連絡で、子どもが育つ上での生活に支障がないことが大切であり、必要以上に、期待しない、という程度でいいのである
子どもの眼差しというフィルター
過去夫婦だった相手、という自分の目線で見たら、元配偶者に対するあれこれ、気に入らないところとか、そこが嫌で離婚したんだったーということを思い出すとか、あまり美しいものではないかもしれない
それでも、子どもにとっては、親のひとりである、と、目線を子どもに重ねれば、腹立つ元配偶者像もひとりの親として、子どもを愛し大切にする人物像が浮き上がっていく
このあたりのことを、まきコーチに教わったのだけど、要は、子ども目線でも、腹立つようなキャラ(たまにはいる)ならば、もはやNGだけど、子どもには大切な親として見えるのであれば、肯定的に受け入れられるのだ、という発見にたどりつくわけである
自ずと、期待値も子ども目線に限定されていくから、ちょうどいい
勝手に、理想の元配偶者像を高めて、勝手に期待を裏切られた気持ちになって傷つくのがムダ
しょせん、離婚した相手なのだから、全体を詳らかに観ようとしたら、腹立つ部分もあるけども、それは、離婚することで解決したのであれば、目をつぶり、あとは、親としてどれだけ機能するか、子どものために見守り、親らしく動かしていく(といっても直接コントロールするわけではないけども)
子どものために理想的な親像
を押し付けることもしない
自分の理想とする親像と違うこともあるかもしれない
でも、理想というのは限定的なもので、虐待などの一発NGでなければ、まー教育熱心かどうかくらいは目をつぶっていいじゃないか
自分が得意とする子育てとは違う子育てをしてくれるならば、それはそれで、多様な体験の機会となって、子の育ちとしてはプラスのはずだ
同じじゃなくてよかった、くらいに受け入れられる
もっというと、共同監護計画は、離婚後に限定せず、親になる時点で共有したいものでもある
中学受験をするのか、とか、習い事のセレクトとか、保育園か幼稚園かでも、父母で話し合って解決するのは本当に大切なことである
託児機関の連絡カード記載する第一連絡窓口を誰にしておくか、というのも大切なのに、なんとなく、母にしておくパターンもあるというのを、育休後アドバイザー界での両立支援のヒントとしては、是正すべき課題として学んだりする
なんとなく生きて、
誰かが決めてくれる時代ではなくなった
多様性というのは、じゃあ様々な選択が可能な中で、自分はどうするのか、自律的に選択することが重要になっていく意味で、しんどかったりする
しんどいけど、ワンパターンにはめられるよりも嬉しい喜びも
だからこそ、攻略しやすいように幸せな生き方戦術も開拓されねばならない
未知なる未来を親子で開拓していく冒険の時代なのである