反響多く感謝
共同親権研究会訴状を読むをゆっくり進めており,寄り道いっぱいななか,昨日は,思うところあって,思考の整理がてら論証した
続々とリアクションをいただく
”話合い”という誤解|弁護士古賀礼子 @koga_r #note https://t.co/SHaO0TZQva
— 山本麻記|パーソナルコーチ (@CoachMaKi___) October 6, 2020
元夫婦仲良く共同養育や、元相手との良好な関係を示すことに違和感を感じていたのはこの詐取感かもしれない。
良くも悪くも相手が自分に対しどう接するか、そこに婚姻時の依存はないだろうか。
「共同親権が話し合いを不要にする」という「当たり前」なはずなのに誤解されてることをきちんと説明していて面白かった
— ted-dora (@teddora555) October 6, 2020
あと「かくれんぼう」は知らなかった!
確認・連絡・報告はビジネスライクな付き合いには必須
なるほど!
@koga_r #note https://t.co/BDtlvfNR1K
なるほど、離婚後共同親権のためには、
— 滝本太郎 (@takitaro2) October 6, 2020
※ほうれんそう=報告・連絡・相談、ではなく
※かくれんぼう=確認・連絡・報告、ね。
もともと上手くいってない夫婦はそんな感じですし、対手も子を愛していると理解するなら、可能なことだろうと。制度化すれば利用者は多いと予測すhttps://t.co/NV5ahVgk5Y
具体例を考えてくれたのかな,と思われるものまで
「相談」と「確認」の違いはなんだろうと考えると、プランやアイデアがない場合に「どうしたらいいか」と聞いてみるのが相談で、プランをもって「これで良いか」と聞くのが確認かな。
— 糸屋 (@itoandya) October 6, 2020
離婚後はコミュニケーションの頻度が限られるので、自然と相談から確認へシフトしてったような気がする。
他にもリアクションは多くありがたいのだけど,話し合いの誤解というテーマで,立場によっては受け取り方も様々あるように感じられることもあって,誤解をしているのは誰か?という視点からまた考えさせられることもあるのであった
なるほど,話し合いもなく連れ去ってという非難するときの文脈にも誤解があるという視点も発見される
そうかもしれない
すなわち,想像するに,しっかりとした協議を尽くし合意するまで連れ去りが禁止される,というよりは,ひとこといって,ということだろうか?
実際,そのひとことさえあれば,同じ別居生活に落着するにしても,ずいぶんと経過が変わってくることが考えられる
昭和のコミュニケーション
ウソかマコトか,めし・ふろ・ねるぞ,だけで家族の生活が成り立っていた伝説に思い馳せてみる
それで十分,子どもが育ったのだから,役割分業システムの合理性が見直されてもいいものやら
役割を固定するのが問題なのであって(しかも性別で役割を決めつけるのがNG),システムを作るということは,決して,離婚後の養育のあり方に限らない工夫である
離婚を選ぶことになった元夫婦だからこそ,コミュニケーションがエラーを招くかもしれないからこそ,頻度を制限することに意義があったり
傷ついたりした気持ちの消化は,よそでやってね,と必要最小限のやりとりに絞ることで,子は父母の対立・葛藤に巻き込まれることを回避し,順調な養育環境を確保できるというものである
離婚したい側と離婚を求められた側での認識も合致しないのかもしれない
離婚を求められる方は,率直にいって,婚姻生活に不満がない
ひょっとしたら搾取する側(逃げ恥参照)だったかもしれないのだから,現状=婚姻生活が心地よい
同じことが搾取される側にとっては,これまでは目をつぶって耐えてきたものの積み重ねが限界を超え爆発し,だから離婚を求めるのであって,とても原状には戻れない・・・ここを理解することが必要になってくる
もちろん,お互いに苦痛な場合もあり,ともすれば,泥仕合の極みを招きかねない一方で,意外にお互いに苦痛からの解放という目的が合致する場合もある
話合いという搾取をしない
ジブリで学ぶ単独親権シリーズを楽しみながら,たとえを思いついたのは,単独親権制における共同養育協議は,いわば,論述式ゆえに,理解がなければ白紙答案に陥りかねない難問である一方,共同親権制の整備がある中での共同養育協議は,選択問題のチェック式で,イチかバチかでも,最低限子の福祉は守りうるという点で簡易化されたといえるのではないか,とヒラメイた
自由記述式での話し合いを期待してしまえば,離婚を望むものにとっては,苦痛そのもである
AorBと聞けば,せめて,一言だけでも一瞬の回答は期待できる
この違いを理解し,共通言語としなければ,子どものために協力する意味が齟齬を招く
協力できる人は濃密に協力すればいい
でも,それが絶対の理想ではないことも知る必要がある
下手をしたら,子どものために協力するがただの呪いにもなりかねないのである
親だから子どもの幸せを祈るものだとしても,親にも親の人生がある
子どものために全てを犠牲にならなければならないわけではない
子どものために,といって,結局一方だけが理想とする話し合い観を押し付けてしまっては,ただ拒まれるだけである
理想が叶わないことはさみしいかもしれないが,それでいいのだと受け止めた方が楽になる
楽になった先に,子どももきっと楽になる
大切なポイントについては,どんなに不和が深刻だった父母だって,意外に真剣に協議できるようなことがあるかもしれない
協議をしないことが協力を促す
不思議に思うかもしれないけど,実際,そういうものである
今日また,渾身の記事が届いた
子どもはね,パパとママがケンカしないで欲しいだけで,夫婦かどうかは気にしないのよ
夫婦をやめても親をやめないだけでも,子どもは十分に愛情を感じることだろう
むしろ
子どものために,夫婦をやめれないなんてことがあったら,その子どもの立場は,地獄の苦しみにさえ陥りかねない
自分さえいなければ,自由に離婚して幸せになれたかもしれない・・・なんて思いを,親思いの子どもの心には芽生えるかもしれないのである
子どもも親の幸せを祈っている
親が幸せに生きる
子どものためにがまんしないことが,子どものことも犠牲にしないですむ
幸せに生きる背中を見せるのも子育てであり,それが親の責任だと思う
子どものために,親が幸せになろう
子どもの幸せが,何よりもの親の幸せだからこそ,親子が幸せになる選択を探す
子育ては冒険の連続である
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