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掌編「ギョク」



『ギョク』
                       
 如月雅也には生まれた時から金玉がひとつしかなかった。
 それは欠落でも欠損でも欠陥でもなく、ただ自然なかたちとしてひとつしかなかった。
 如月雅也の金玉は何度数えてもひとつより増えることがなかった。
 それはシワやホクロのように増えたり減ったりするものではなく、たとえば一人称単数に時節の増減がないように、芽が出たばかりの球根に露滴る鯨の朝にも、別れの予感に枕を濡らす狐の夜にも、もうそれ以上は大きくならない独立した恒星としてただそこに在った。
 その姿があまりにも自然であったため、親も医師も彼に違和感を覚えることができなかった。
 本来ふたつあるべきところへひとつしかなければそれは異常であるが、如月雅也の玉袋には金玉ひとつ分のスペースしかなく、まつわる構成要素もすべてそのひとつのために存在していた。おかげで如月雅也はひたすらに真っ直ぐ育った。
 如月雅也は道に迷わなかった。観たいテレビ番組に迷うこともなかった。夕食のおかずのリクエストに悩むことも一度だってなかった。
 如月雅也の中にはいつもひとつしかなかった。如月雅也は、比べて迷ったり、選べずに悩んだりということをしなかった。
 如月雅也のたったひとりの母親であるところの如月真莉亜はそんな我が子に全く興味を示さず、しかし精神の深いところでは確かに彼を愛していた。

「金玉はふたつあるが命はひとつしかない。だから人間は尊い」

 小学校に上がってしばらくすると、担任の小涌谷教諭はそう言って教室を見渡した。
 その視線の先にはもちろん如月雅也もいたが、小涌谷教諭の常識的観念に単一金玉の所在はなかった。小涌谷教諭のエスプリはその可能性の種さえ認めていなかった。そこには一切の悪意がなく、それゆえに如月雅也の胸を鋭く深く刺した。

「先生、僕にはひとつしかないのですが」
「私にも命はひとつしかない。皆おなじだ」
「命ではありません金玉がです!」

 その日から如月雅也は皆から「オンリー・ワン玉くん」略して《ギョク》と呼ばれるようになった。
 ギョクには金玉がひとつしかなかったので非常に姿勢が良かった。立ち姿、座り姿、歩き姿のどれもが絵画か彫刻家という出で立ちであった。そのため「ギョク」という愛称は、いにしえの皇帝の御姿を皆に想起させた。
 如月真莉亜はその名の通り聖母であると町内会では噂になった。ギョクに父親がいなかったことも影響したのだろう。また町内会の男たちはみな狼であった。

「背筋が凍るような目をした男が全員お前の父親さ」

 ギョクは母からそう聞いていたので、生きとし生ける全ての生物の目を見て話した。犬の目も猫の目も烏の目も、爺の目も婆の目も母の目も、教師の目もクラスメイトの目も後輩の目も先輩の目も全て見た。ギョクには金玉がひとつしかなかったので、動物と人間に違いがなかった。性別にも年齢にも職業にも差が見出せなかった。
 しかしギョクも恋をする。

「綺麗先輩、あなたの目はこの世の誰よりも美しい!」

 中学へ上がり恋をした。
 ひとつ年上の西園寺綺麗は学園一の金星女王であった。
 その美しさを形容する術を人類は未だ持たない。
 それはギョクが生まれてはじめて出会う“他とは違うもの”であった。

「美しいなんてそんな、私なんて大したことないよ」
「ああ、そうだな!あなたは全く大したことない!」
「は?何おまえ死ねよ」

 ギョクは愛した女のすべてをただ肯定してやりたかっただけだった。
 彼女が口にするすべての言葉を現実にしてあげたかった。
 できれば殴られた衝撃で倒れてやりたかった。しかし金玉がひとつであるためにビクともしなかった。

  『愛する女のために倒れてもやれない薄情な男が俺だ』

  【退学願】と書かれた封筒に入れられた便箋にはただひと言、そう書いてあった。それは見事な手書きの游明朝であった。
 その肉筆に並々ならぬ覚悟を見て取った定年間近の東十条校長は「中学には退学とかはないのだが」と独り言ちながら丁寧に便箋を折り、慎重に封筒に仕舞い、そのまま乱暴に破り捨てた。

 ―――二十年後

 イーストグリンステッドのアッシュダウンフォレストに仰向けで倒れる大柄な男がいた。その胸には穴があき、血が流れている。
 ギョクには金玉がひとつしかなかったから、自分に嘘をつくことができなかった。どうしても真っすぐにしか生きられなかった。
 この腐り切った世の中で真っ直ぐに生きればどうなるか、少なくとも真莉亜は分かってた。だから彼女は立ち止まったり、煙草を吸ったり、意味もなく空を眺めていたのだ。
 たったひとりの母の、ただ美しいだけの顔を思い出しながら、ギョクはむくりと起き上がり、木陰に身を隠す男に声をかけた。

「なあ、皺になっていないピンと張った煙草あるか?」

 「おいおい、心臓ブチ抜かれてなんで生きてんだお前~?」と言いながら、妙に蜂蜜が好きそうな男がその姿をあらわし、武骨な銃を構えたままギョクへと近づく。

「俺には金玉がひとつしかないのさ」
「だから何だよ」

 ギョクは尻のポケットから皺くちゃになった煙草の箱を取り出し、その中からまだマシなものを一本取って口に咥えた。
 蜂蜜男は立ち止まり、何も見逃すまいとギョクの眼球を見定める。

「チッ。火がねえや」

 ギョクがそう言って胸から小銃を抜くと一瞬の内にその銃口が蜂蜜男の眉間を捉える。

「こんなおっかねえ目ん玉は俺っち初めて見たよ」

 それが最期の言葉だった。
 無言で倒れている男のポケットをガサゴソ弄るとライターをひとつ見つけたがオイル切れだった。

「人生何をしたって良い。でも命とライターはふたつ持っておけ」

 英国人が事あるごとに口にする諺の起源がひと玉の日本人であることはあまり知られていない。

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