見出し画像

紀行論文「BFC本選出場作品におけるラーメンの不在について」

著・古賀 裕人


はじめに

 
 わたしはラーメンが好きであるので、「賞金なし」「プロアマの垣根なし」「ジャッジもジャッジされる」でおなじみの文芸オープントーナメント「ブンゲイファイトクラブ」(以下、BFC)にラーメンを探しに行くのも自然な流れである。
 BFCは過去5回開催されており、計174作品が本選出場を果たしている。
 174作品もあれば、何杯かのラーメンには、出会えるだろう。
 わたしはラーメンが好きであるので、魅力的なラーメンとの出会いをあえて期待する。


BFC1における麺類としてのラーメン

 
 初開催である第1回BFC(以下、BFC1)では、1回戦32作品、2回戦8作品、準決勝4作品、決勝2作品の、合計46作品が本選に出場した。

 順に眺めていったが、なかなかラーメンに出会えない。

 「卵」や「スープ」、あるいは「骨」といったものは登場するが、わたしはラーメンが好きであるので、素材だけではいただけない。
 BFC1に登場する非実在人物たちは喫茶店には行くがラーメン屋には行かない。
 煙草を吸って酒を飲むが、〆にラーメンを食べようとはしない。
 夫婦生活の中でラーメンが食卓に並ぶこともない。
 豚は殺すがラーメンは作らない。

 殺人野球に至っては、殺人野球をするよりもまずラーメンを食べてはどうかと提案したいが結局、『ニルヴァーナ 川柳一〇八句』(2019, 川合大祐)にひと言「麺類」と出て来たのが最もわたしがラーメンに近づいた瞬間であった。

 総務省によれば、ラーメンなどの「中華そば」に関する1年間の外食費用(一世帯あたり)は1位の山形市ともなれば1万7593円に上り、1杯700円換算で年間25杯である。月2杯である。(2024, 「家計調査報告(二人以上の世帯)」, 総務省)

 私はラーメンが好きであるので月8杯はアベレージ食べてしまうが、それでなくとも人間が人間である以上切っても切れない関係であるところの国民食ラーメンが、公募によって集められた46作品の中に一度も出て来ないというのもやや奇妙な話である。

 軽度な居心地の悪さを感じながらも第2回BFC(以下、BFC2)の暖簾をくぐる。


BFC2における概念としてのラーメン

 
 BFC2では1回戦40作品、2回戦8作品、決勝2作品の、合計50作品が本選出場を果たしていた。
 作品数が増えればそれだけラーメンとの遭遇率も上がる訳で、歓迎すべき傾向である。

 ところがどうだろう、今すぐ人間に食べられたいと思っている牛がラーメンになることもなく、カナメくんは死ぬ前にラーメンを食べないし、現代国語辞典(第三版)でラーメンについて調べる者もいない。全然いない。

 神様は出てくるが、佐野実は出て来ない。

 『蕎麦屋で』(2020, 飯野文彦)には「洋食か、せいぜいうまいラーメン屋か」という文言が登場するが言葉の上のものでしかなく、実体は伴わない。

 『タイピング・タイピング』(2020, 蜂本みさ)には「ラーメン鉢の底の警句」という文言が登場するが、ギリギリのように見えてこれは警句であってラーメンではないため、むしろ遠い。

 それであればまだ文乃の鎖骨で出汁を取り始めた方がまだ建設的である可能性は高い。
 概念猿が出てくるなら概念ラーメンにだってチャンスは欲しいが、わたしはラーメンが好きであるので概念ではなく実体としてのラーメンを所望する。

 そこへ来て『味幸苑』(2020, 海乃凧)には実体を伴った中華屋が登場し、そこで「かた焼きそば」が実食されるのである。
 本かた焼きそばは、BFC全体を通しても極めて希少な捕食シーンそれであった。

 わたしはある程度の手応えを感じつつ、しかし好きなのはラーメンであるため会場を辞し、第3回BFC(以下、BFC3)へと歩みを進めた。


BFC3における情報としてのラーメン

 
 BFC3では1回戦24作品、準決勝4作品、決勝2作品の、合計30作品が本選出場を果たしていた。
 総数としてはやや減少傾向にあるため不安を覚えたが、わたしはラーメンが好きであるので、諦めずに一杯を追っていく。

 するとどうだろう、決勝からして「カニクリームコロッケ」(2021, 『泥棒コロッケ』, 坂崎かおる)と「ミスタードーナツ」(2021, 『気持ちじゃなくて』, 左沢森)の【食べ物対決】である。

 これは期待できる、と唾を飲んだが束の間、『気持ちじゃなくて』に唐突に現れる「ラーメンの全員分のお釣り」。惜しい。「ラーメン」の文言はあってもお釣りはお釣り。警句と同じである。なぜもう会計まで終わっているのか。

 期待しただけ惜敗の念は深く、「サバンナコーナー」(2021, 『フラミン国』, 坂崎かおる)はあってもラーメンコーナーはないことに落ち込み、「わんわんフェスティバル」(2021, 『第三十二回 わんわんフェスティバル』, 松井友里)はあってもラーメンフェスティバルはないことに肩を落とし、「かろんと飴が歯に当たる音」(2021, 『明星』, 藤崎ほつま)はするのにズゾゾとラーメンを啜る音はしないことに胸を痛めた。

 ラーメンの気配は確かにするが、姿そのものは片鱗さえ見せない。

 あるいは怪奇である可能性まで検討せざるを得ない状況に片足を突っ込んではいるものの、希望を捨てるにはまだ早い。

 例えば宮月の『花』(2021, 宮月中)には、『野球部の堀田がスマホをいじっていて、私が「菊だね」と声をかけると「ああ、菊やな」と顔も上げずに言う』という描写があり、堀田が野球部であることから考えてもスマホで見ていたのはラーメンデータベースである可能性が極めて高い。高いが、明確な描写がない以上、断定するのは危険である。たとえ可能性は極めて高いにしても危険である。
 またこれはBFC全体に共通した傾向であるが、作中に野球部が出てきた場合、球児たちはラーメンを食べない。

 であれば、重要であるのは野球ではなくスマホであるべきで、その視座は宮月が第4回BFC(以下、BFC4)の準決勝に提出した作品へと引き継がれる。


BFC4における投影としてのラーメン

 
 BFC4の本戦出場はBFC3と同数の合計30作品。(1回戦24作品、準決勝4作品、決勝2作品)
 その準決勝で宮月は「パパはスマホに夢中」というその渾身の一文に、自身の運命を託している。(2022, 『バス停山』, 宮月中)

 バス乗車中、子への注意散漫なままに、父親はスマホ画面に何を見るか。

 ラーメンである。

 食べログ百名店かミシュランガイドかは定かでないがラーメンである。
 99%ラーメンで間違いないが、宮月の流儀であろうか、やはり明言は避け、その解釈は読者へと委ねられている。

 文芸作品においては暗喩が全てである。

 愛をもって愛を語るべきでないように、ラーメンによってラーメンを語るべきではない。

 そういったメッセージが主題であるならば、『バス停山』はラーメン紀行であると言って良い。
 しかし、わたしはラーメンが好きであるので、形而上ではなく形而下でのラーメン存在を求めているのであるからして、宮月の主張を受け入れることはできない。
 ところがBFC4においては、暗喩としてのラーメン存在がその濃度を高め、読者へとその煮干しの香りをほのめかす傾向が見られた。

 『ファクトリー・リセット』(2022, 古川桃流)では、「今日は、外で食事してくんの?」と問われた【僕】が、「うん」と答えて出掛けるにもかかわらず、結局何も食べずに帰って来る。この矛盾にはラーメンが関係しているのではないか。

 『柱の傷』(2022, 藤崎ほつま)においては、新婚夫婦の寝床を覗きに行った二人が茶粥を出されて暖をとる様子が描かれるが、咀嚼の擬音には「ずるずると啜った」が採用されており、これはラーメンの咀嚼と同音であるからして何らかの投影があるのではないか。

 そうして深まる謎に疑心暗鬼となっていくわたしたちの心情を的確に射抜くのが、草野理恵子の『ミジンコをミンジコと言い探すM』(2022, 草野)である。

 「チキンラーメンが食べたいねと言うと 大根はなぜかさみしそうにうんと答える」

 ああ、わたしは大根だ。
 こんなにもラーメンが食べたくて食べたくて、一杯で良い、特別でなくて良い、ただただ普通の、当たり前のラーメンが食べたいだけのわたしに、きみは、「チキンラーメンが食べたいね」と、そう言うのかい?
 あまりにもさみしい。
 誰かにわたしをわかってほしい。
 あまりにもかなしい。
 なのではないか。

 『校歌』(2022, 奈良原生織)に至っては人物がコンビニから「カップ麺」を持って出て来るところまで描きながらそれでも食べさせない。視点に捉えさせない。食べてはいるのだろう、あくまでも画角の外で。

 ここまでくるともはや虐めである。
 町内会費を払わない新参者でもあるまいし、一体ラーメンに何の恨みがあるというのか。
 いてて…
 いよいよストレスでお腹が痛くなってきた。

 だからであろうか、決勝では冒頭から大腸に話しかけることになる。(2022, 『健康と対話』, 冬乃くじ)

 もうダメかもしれない。
 そんな空気を感じつつBFCを進んでいく。

 「さあ、誰が一番強いかはっきりさせようじゃないか」と、BFCは言う。

 「なあ、一番美味いラーメン俺に食わしてくれよ」と、わたしは言う。

 需要と供給の不一致である。
 そもそも入り口が間違っているのだ。

 『或る男の一日』(2022, 佐古瑞樹)では朝昼晩、三食の食事シーンが描かれるにも関わらず、そこにはラーメンのラの字も出てこない、候補にすら挙がらない。

 だがそれが良い。


BFC5における希望としてのラーメン

 
 世界からラーメンは消え去ってしまったのか。

 誰もがそんな不穏を感じる中で開催された第5回BFC(以下、BFC5)決勝。
 ヴィゴ・モーテンセン(2023, 『ヴィゴ』, 鳴骸)はやはり、ラーメンを食べない。

 これはもうダメか。

 全てを諦めブラウザを閉じようとしたわたしの目に、飛び込んできた『麺Shock!!』(2023, 萩原真治)。

 過去5回開催されたBFCの本戦出場作品の中で唯一、ラーメンが出てくる可能性を含んだ光の小説である。

 萩原は普段「ハギワラシンジ」の筆名で創作活動を行う傍らで自ら「護麺官」を名乗り、日々ラーメンにして食べ歩きを栖とする麺人の類いまさにそれである。

 なればこそ萩原の創作活動に対するラーメンの影響は侮れず、『肉汁公の優雅な偽装生活』(2021)、『古麺拉歌集を吟じる護麺官ヌードリアス』(2022)、「濃厚百足ラーメン『異種姦だる』」(2023)、『ラーメンの入学式』(2023)など、直接あるいは間接的、直喩だ隠喩だに拘らずラーメンを主題とし時に副題とした作品を発表し続けてきた。

 短歌よむ千住(BFC2, BFC5本選出場)のようにラーメンと創作の間に一線引く護麺官も多い中で、萩原のそれはラーメン文学と称するに足る領域に達していると言って良い。

 当然のこと上がる期待値。

 WEB文芸界でただひとり、ラーメン文学を探求する男、萩原真治。

 喉から手が出るほど欲しかったBFCの本選出場。

 そこにぶつける、渾身の一杯。

 「ウーム、とお医師は唸って尿道に関する診断書を書いてよこしました。」(2023, 『麺Shock!!』, 萩原真治)から始まる純文学。

 そして手ずから語られる、【濃厚魚介つけ麺】の物語。

 つけ麺は、ラーメンではない。

 わたしの旅は終わった。


調査報告

題:「BFC本選出場作品におけるラーメンの不在について」

対象:過去に開催されたBFCにおいて本選に出場した全作品

BFC5:8作品(決勝_2作品, 1st_16作品)
BFC4:30作品(決勝_2作品, 準決勝_4作品, 1st_24作品)
BFC3:30作品(決勝_2作品, 準決勝_4作品, 1st_24作品)
BFC2:50作品(決勝_2作品, 2nd_8作品, 1st_40作品)
BFC  :46作品(決勝_2作品, 準決勝_4作品, 2nd_8作品, 1st_32作品 )
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
計174作品 未掲載1作品

<第1回BFC>

決勝:ラーメンの登場なし
準決勝:ラーメンの登場なし
2回戦:ラーメンの登場なし
1回戦A:ラーメンの登場なし
1回戦B:ラーメンの登場なし
1回戦C:ラーメンの登場なし
1回戦D:ラーメンの登場なし
1回戦E:ラーメンの登場なし
1回戦F:ラーメンの登場なし
1回戦G:「麺類」のみ
1回戦H:ラーメンの登場なし

<第2回BFC>

決勝:ラーメンの登場なし
2回戦:「かた焼きそば」のみ
1回戦A:ラーメンの登場なし
1回戦B:ラーメンの登場なし
1回戦C:ラーメンの登場なし
1回戦D:「洋食か、せいぜいうまいラーメン屋か」「ラーメン鉢の底の警句」のみ
1回戦E:ラーメンの登場なし
1回戦F:ラーメンの登場なし
1回戦G:ラーメンの登場なし
1回戦H:ラーメンの登場なし

<第3回BFC>

決勝:「ラーメンの全員分のお釣り」のみ
準決勝:ラーメンの登場なし
1回戦A:ラーメンの登場なし
1回戦B:ラーメンの登場なし
1回戦C:ラーメンの登場なし
1回戦D:ラーメンの登場なし

<第4回BFC>

決勝:ラーメンの登場なし
準決勝:ラーメンの登場なし
1回戦A:「チキンラーメンがたべたいねと言うと 大根はなぜかさみしそうにうんと答える」のみ
1回戦B:ラーメンの登場なし
1回戦C:「カップ麺」のみ
1回戦D:ラーメンの登場なし

<第5回BFC>

決勝:ラーメンの登場なし
1回戦A:「ラーメン屋」「油そば」「ラー」「濃厚魚介つけ麺」のみ
1回戦B:ラーメンの登場なし


結論:

 BFC本選出場作品におけるラーメンの登場、なし


以上


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?