世界遺産・百舌鳥古墳群へGO!

皆さん こんにちは!

今回は、歴史のことを書いてみようと
思います。

行先は「堺!」

堺と言えば千利休のイメージが強い人も
多いのではないでしょうか。

ただ、今回は千利休ではなく、「古墳」です!

学校で習う歴史の授業だとそんなに細かく

習うわけではないので、

存在は知っていることが多いと思います。


1. まず、はじめに

百舌鳥古墳群

今回は、この3人の古墳(天皇陵)を

目当てに訪れました。

*ややこしいのでここからは

天皇陵と呼びます。

この3人の天皇陵を含んだエリアは、

「百舌鳥古墳群」と呼ばれ、

近くにある「古市古墳群」と合わせて

世界文化遺産に登録されています。

「百舌鳥古墳群」の紹介の前に画像を

じっくりみてほしいのですが、天皇陵の付近に

小さな古墳が集まっています。

この小さな古墳は、「陪塚(ばいしょう)」

呼ばれており、有力者に仕えた側近の古墳と

考えられています。

陪塚と天皇陵の古墳を中心に構成されている

ため、「古墳群」と呼ばれています。


2. それではLet's go!!

履中天皇陵の最寄り駅・JR阪和線 上野芝駅
以前訪れた京都の天皇陵には案内表記なかった・・・
履中天皇陵の制札
履中天皇陵の拝所

ちょっと大きすぎるので拝所からは、

全体が見えません。

履中天皇陵がよく見える

少し歩くと履中天皇陵がよく見える

地点があります。

写真だけで見てもとても大きいですね。

この履中天皇陵は、全長365mと

日本で三番目に大きな古墳です。


3.その付近の「陪塚」はどんな感じ?(履中天皇陵)


①いたすけ古墳

いたすけ古墳

②御廟山古墳

御廟山古墳の入り口
御廟山古墳

③長塚古墳

長塚古墳の案内
長塚古墳

④収塚古墳

収塚古墳

陪塚にも天皇陵のように堀や水が

張っているのもあれば、丘…??みたいな

ものもあり、とても面白かったです。


4.誰もが一度は聞いたことがある!(はず) 仁徳天皇陵

仁徳天皇陵の制札
仁徳天皇陵の拝所

あのですね…

大きすぎて写真に収まりませんでした…笑

なんせ、大きさが486mありますから・・・

その場にいたNPO法人の観光案内の方から

仁徳天皇陵について丁寧に説明をして

いただいたのですが、

大きさを例えると甲子園球場12個分だそうです

(阪神ファンだけどあまりよくわからない)

中国の始皇帝陵とエジプトのピラミッドより

大きいことさえ分かってもらえれば

いいそうです(笑)。

灌漑…??

仁徳天皇陵にも周りに堀があるのですが、

水が張られています。

仁徳天皇陵の堀の水については、

何に使われていたのか江戸時代の記録が

残っています。

写真の通り、灌漑と書いているので

農業や生活用水に使われていました。

「ええ??」と思うかもしれませんが、

江戸時代の段階ではこの丘が何なのか

分かっていなかったため、周辺の住民が

釣りをしていたなんて記録もあります。


ならば、天皇陵の中も誰か見てるんじゃ…??

と思うかもしれません。


残念ながら、天皇陵を調査することは

管轄している宮内庁が禁じているため、

本当のことは分かりません。

ただ、3Dで内部を見たところどうやら以前に

盗掘の被害にあっていて中には何にも

なかったそうです。

歩道橋から見た仁徳天皇陵

森のようになっていて分からないかも

しれませんが、高さはビル10階相当の高さ

だそうです。


5.その付近の「陪塚」はどんな感じ?(仁徳天皇陵)

銅龜山古墳
樋の谷古墳
丸保山古墳


6.次の反正天皇陵へ!

反正天皇陵の案内
反正天皇陵の制札
反正天皇陵の拝所


7.上から見えるらしい・・・??


仁徳天皇陵でお会いしたガイドの方から

「市役所の展望デッキから全体が見えるよ」

と教えていただいたので、行ってみました。

反正天皇陵
仁徳天皇陵
履中天皇陵


8.最後に ~なぜここに作ったのか~

古墳時代の頃の大阪湾

なぜ、天皇陵を堺につくったのか。

それは、当時の地図を見れば分かります。

少しわかりにくいので、

まず堺がどこにあるのかをまず説明します。

地図の真ん中にある上町台地は、

今の大阪城から天王寺にかけてあります。

堺はその左下にあります。


当時は、奈良にヤマト政権の中心地があり、

そこに行くには生駒山地を超えなければ

なりません。

そこまでに、舟で来た場合は河内湖に停める

必要があります。


そこで、真っ先に目のあたりにするのが

「百舌鳥古墳群」です。

百舌鳥古墳群の向き

天皇陵の向きにも注目です。

なぜ、海に並行しているのか。

舟から見ることを想定すれば分かると

思います。


こんな大きな墓をみれば、とんでもない勢力を

持っている王が代々君臨していることが

分かるため、敵対しようとする気力を下げる

心理的な策略でもあったわけです。


いかがでしょうか。

また、歴史のことで書けることがあれば

書こうと思います。


ほな、また。

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