原液の物語
いつだってわたしは物語が読みたかったのではなく、物語の原液のようなやばい色をしたもの、それは言葉とはかぎらず絵だったり写真だったり場所なのかもしれないけど、それを時々舐めてみたり、ほかの飲み物に一滴だけ垂らして眺めていたかったのだ。
わたしにとって「地球の恋人たちの朝食」は「醒めてみれば空耳」と並んでそういうこの世に絶対に必要だけどこの世にあるはずのないテキスト、つまり物語の原液が無数にしまわれた場所であり、お守りとして携帯される青酸カリにもどこか似たものだった。
ネットにあったときの「地恋」をわたしはほんの一部しか読んでいない。今もネットにある「醒めてみれば空耳」もやっぱりほんの一部を読んでいるだけで、ほんの一部を読むことで「こういうものがきっと一生かけても読み切れないほどここにあるからこの一生に関しては大丈夫」と(たぶん事実に反して)確認して安心するために時々訪ねていっている。
「地恋」が訪ねていけない場所になってずいぶんたつけど、いま本になった『地恋』を手にとってもおどろくほどこれは場所なんだと思える。この場所のすべてを見てしまうことはないという幸福感。ちゃんと「本には収録されていない分」が残されていることも「地恋」が場所であることを裏付けているけれど、もし全部の話を読んだとしてもほんの一部を読んだことにしかならない。この原液は、一冊になると人が一生に摂取できる物語の何十倍かにはなっていて、つまり軽々と致死量だ。
わたしがこの場所をちゃんと歩きつくす前に、わたしの人生は必ず尽きているという安心感。今ぱらぱらとめくったどのページからも、すごい速さで見切れていくものたちの影がある。「地恋」を自分は読み終えたんだと思うことは、それらのものたちの後を追うことをあきらめたということだ。この行間という行間にめちゃくちゃに挟まっている、読むことができない本、本、本……を読み始めてしまったら、一生なんてあっというまに使い果たしてしまいそう。だけど読めない本は読むとしたら一瞬だから、一生あれば一生かかっても二度と戻ってこれないところまで、分け入ってしまえる。わたしはそんなことを考えている。
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