【日記超短編】ボロボロのオレンジ

 いいからこっちへ来てみろよ、と言いながら孝雄は橋のむこうで手招きをする。しかし私の足は目の前の橋の上に踏み出そうとはしない。こんな場所に橋などあったのか? というのが第一の疑問だし、孝雄はたしかに昔からの知り合いだが、こんなに快活に声をかけてくるような人間ではなく、町で会ってもすかさず目を逸らし、こちらから声をかければ渋々小声で返事を返すような男のはず、というのが第二の疑問である。
 だから疎遠だった数年間のうちに快活な人格に変貌するような事件があったのか、あるいは何らかの薬物の摂取などにより俗に言う「ハイになっている」状態なのか、というのが気になるところだった。
 第二の疑問については本人にいきなり質問するのも気が引ける、それほど親しいわけではないのだから。というわけで第一の疑問についてそれとなく牽制してみることにした。
「でも、こんなところに橋なんてあったのかなあ?」
 私は孝雄に話しかけるというより、独り言に近い言い方でつぶやいた。ことによると私の記憶違いかもしれないから、そうだった場合に恥をかかぬよう冗談めかした調子も付け加えた。そして橋のむこうの相手の反応を窺うと、孝雄はまるで私の言葉が一切聞こえなかったように、というよりここまでの私とのやりとりが一切蓄積されていないかのようにまるで同じ調子で、
「いいからこっちへ来てみろよ」
 そう言って手招きをしたのだった。
 私はなんだか気味が悪くなり、今すぐこの場を立ち去りたいと思った。しかしビデオ映像のように同じ反応をくりかえす知人を放置していくのは、途中で映像を静止状態にしてあるテレビをつけっぱなしで外出するような気持ち悪さがあった。
 私はとくに考えもないまま、手にしていたマイバッグの中をさぐる。すると先ほど立ち寄ったスーパーの見切り品コーナーにあった割引シールのついたオレンジが目についた。
 今手もとにある物のうち、手放してもさほど惜しくないものと言えば、その一個五十円ほどで買ったオレンジくらいだ。
 そのへんに落ちている小石を拾って投げつけるよりはずっとましだろう。そう思って私は見切り品だけあって半ば干からびたような、ボロボロの皮のオレンジを掴むと孝雄に声をかけた。
「これ、あげるよ!」
 軽く振りかぶって投げると、ボロボロのオレンジは橋の上を山なりに通過してちょうど孝雄の胸の辺りに届こうとしている。
 だが相手はそれを受け止めようという気はないらしく、棒立ちのような今までの姿勢を崩さなかった。はっと息を飲んで見ていると、オレンジは孝雄のTシャッの胸にあたり、地面に落ちる。そして橋の上を一メートルほどこちらにもどってきて止まった。
 恐る恐る視線を上げれば、孝雄は表情も姿勢も変えずにじっとこちらを見ている。
 だが彼の右手は手招きの動きをやめて奇妙な形に固まっていて、口からも私を呼び寄せる言葉は何も聞こえてこなかった。
 偶然にも、一時静止ボタンを押してしまったのだろうか。

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