【日記超短編】薔薇庭

 さえちゃんが住んでいた、だけど一年前に引っ越してしまったアパートは、今も空き部屋で、庭で咲く薔薇がガラス窓に映っている。わたしは泥棒のようにその庭を覗き込む。自分の顔が薔薇に照らされて赤や白や黄色に変わるのを、不思議な映画のように思い浮かべる。
 さて散歩の続きにもどろう。自分の足音が住宅街に響くのを聞くのが好きだ。わたしのたてている音なのに雨だれみたいに聞き入ってしまう。今日の靴の音はとくにいいな。わたしのみじかい歩幅。消えかけた白線。バッグが腰に当たる音。音もなく道路をすべっていく影。追い抜いていくバイクや自転車。空は曇っていて、風がなくて、坂道の上では犬が吠えている。
 さえちゃんの飼っていた金魚はよく逃げ出すので、二人でバケツを持って、このあたり何度も駆け回ったよね、名前を呼んで。薔薇庭! それが逃亡癖のある、ピンク色の小さな魚の名前だ。もちろんアパートの庭の薔薇からつけた名前だけど、金魚は自分の名前を覚えない。だから呼んでも呼んでも、最後まで姿を現さなくて、駆け回るうちにバケツの水はこぼれ、さえちゃんは涙ぐみ、道端に座りこみ、煙草を何本もふかして、夕暮れのサイレンが鳴りわたり、一番星、結局次の日にはあきらめてまた新しい金魚をペットショップで買ってくるのだ。
 そして同じ名前をつける。失敗をみとめたくないみたいに。だから逃げ出す金魚はいつも薔薇庭だったし、開けっ放しの窓辺に無防備に金魚鉢を置いていたことを思うと、さえちゃんの薔薇庭たちの逃亡先は、近所を優雅に徘徊する首輪のない黒猫の胃袋だったんじゃないかとわたしは睨んでいる。
 一〇三号室は、花と棘のあるリボンに包装されたプレゼントのような部屋だったと、わたしは何度でも言いたいよ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?