【日記超短編】図書館の出口

 子供の頃は図書館が好きだった。今のわたしはそうでもなく、日によっては嫌いだ。
 年の離れた姉にバスで十五分の市立図書館によく連れていかれ、死んだ動物が死んだ人間に飼われる話の絵本ばかり姉のカードで、姉の好きな中国の小説やアフリカの小説と一緒に借りてもらっていた。
 市立図書館に七千九百二十一冊あった「死んだ動物が死んだ人間に飼われる話の絵本」のうち三分の二ほど読み終えた頃、老衰で姉が死んだ。わたしは自分の貸出カードをつくって残りの絵本を借りていったが、姉に借りてもらうのと自分で借りるのではまるで勝手が違う。自分で借りるにはそれらの絵本は表現として幼すぎ、またどの本の中身もあまり代わり映えしないように思えてしまう。姉がいた頃はそんなことは一度も考えたことがなかったのに。
 これはあきらかに、わたしの貸出カードがわたし同様のみじめな欠陥品にすぎないからだ。
 残り七十七冊になったところで、わたしは自分の人生にもはやその手の絵本が一冊も必要ないということを渋々認めた。それからもしばらくは惰性で図書館に通っていたけれど、わたしの目は書架に並ぶ背表紙の上をすべってあらゆる本を取り落とし、閉館時刻まで粘ったすえ窓の外に浮かび出た星の配置がその文字に似ていたとか、読めない漢字を不安にかられ凝視していたら人体解剖図に見えてきたとか、どうしようもない理由で選んだタイトルの本ばかり借りて帰った。
 目に泥の指を突っ込まれるような苦痛をおぼえながら読み終え、返却に訪れる。するとまた閉館時刻ぎりぎりまで居座ったわたしはどうしても次の一冊を持ち帰ってしまう。
 中にはいい気持ちで表紙を閉じた本もあるにはあった。けれどいずれにせよわたしは本の内容をひとつも覚えていない。いい加減な選び方をする本はその都度中身がみんな違いすぎて、会う人ごとに違う道を教えられた旅行者のように本の外で迷子になってしまう。図書館の床には図書館と同じ色の錠剤が時々落ちているから、それを口に含んで給水器の水で飲み干せば少しだけ落ち着いた気分になることができる。迷子であることは変わらなくても、迷路の出口がべつにたどり着く必要のないこの世の宝石みたいに光っていることが感じられ、自然に目に涙が滲んでくる。

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