【断章】合理化について

小説は文字しかないから、ストーリーなんて書いたら他のこと書くところがなくなっちゃうし、じっさいたいていの小説はストーリーだけ読めばいいようになってて、何か変なことや珍しいことも「ストーリーの範囲でやる」ことになっているように思う。

小説にストーリーはいらないし、短歌に作中主体はいらない、という感覚がもっと普通に(なんなら「主流」に)なるくらいの期待があったけど、どうも現実はそのようにはならず、逆に小説は市場の縮小により合理化されてジャンル問わずストーリーだけが残るし、短歌は作中主体だけが残るのかもしれない。

短歌の合理化=作中主体だけが残る、は口語化が口実になり、そこに聞こえているのはすべて一人の声の反映だ、というときに作者を守るアバターか衝立のようなものとして作中主体が居座り、ほとんど短歌と一体化していくのではと思う。

語と語のこすれが人の声に聞こえる、というかたちで短歌の無人化が実現するとすれば、口語はなめらかすぎて語がこすれない、そのため一人の発話として全体を受け入れ、作者と紐づけのたやすい作中主体の口がそれを言っている、という納得がたいてい勝つという感じ。

小説はストーリーがまずあって、何かそれ以外のよけいなもの、ノイズが後に来るのだとすれば、ストーリーを省略してノイズだけにすれば話が早い、と思っていたけど、貧しくなるというのはそういうことではなく、当然のようにノイズのほうから「合理化」されてしまうのだろう。

だから今「ノイズ」的なものを小説でかこうとすれば、「これは合理化の対象じゃないですよ、りっぱなストーリーの一部ですよ」ということをわかりやすく提示してみせなければならないのかもしれない。「合理化の対象じゃない、立派な作家」だと世の中に認識されている作者以外は。

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