【断章】終点について
たとえばツイッターで読まれる短歌は、横書きでツイートを読む速度で読まれる、という条件につねに縛られるので、この条件に耐えられない種類の魅力は振るい落とされることになる。こうした「条件」はさらに大きな文脈として現代の日本語環境全体にまでひろげることができるだろう。
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横に広い人間の視界を縦に通過する、という交差による抵抗感が日本の短詩型文学の基盤だと思うが、デジタル環境の普及で日常的に横書きがデフォルトとなったことが文体に最も影響を与えたのは短歌ではないか。つまり「やりようによっては横書きに耐えてしまう」ところに短歌の強みと弱みがともにある。
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私の感覚だと短詩型で縦書き→横書きの影響が相対的に少ないのが俳句で、川柳はかなり縦書き→横書きの影響を受けるが適応が比較的難しい(ゆえに文体は維持されやすい)、短歌は影響も受けるが適応が比較的しやすい(ゆえに文体は変化しやすい)、という感じ。とくに俳句については自信がないけど。
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ある特定の環境の中で書かれ/読まれる作品が似てゆくのは当然のことだが、ツイッターは個々の文章の段差を均して文脈を統合してゆく装置なので、そこでなされる作歌はこの装置の特性に寄せられ、個別の集団や人間関係の文脈を越えてひとつの共通言語という終点をちらつかせる可能性があるだろう。
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全員が同じ言葉をつかい互いの言葉を理解しあう世界とは、違う言葉をつかったり言葉そのものを持たないものを縁からこぼし落としながらあらわれる世界だ。あらゆる道がどこかへ通じ、行き止まりのない世界。短歌はとうとう、あるいはとうの昔から? 行き止まりであることをやめつつあるのだろうか。