【断章】法螺と夢について
結果的に似たようなものになるんだとしても「法螺話」的な小説と「夢の話」的な小説は、書くうえではっきり分けて考えたほうがよさそうだ。語りのエンジンの質または位置が違う、という感じ。
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この区別は自分でしておいてよくわからなくなるのだが、(自分にとって)わかりやすい例を出すなら蛭子能収の作品でいうと81年くらいまでは「夢の話」寄りで、82年くらいから「法螺話」寄りにシフトしたという印象。
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これも漫画のたとえだけど、つげ義春は「夢の話」寄りで水木しげるは「法螺話」寄り。映画だとリンチが「夢の話」でゴダールが「法螺話」、とかだろうか。どうもまだしっくりくるたとえが出てこない。
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「夢の話」は基本的に下に進む、くだっていくものであり、「法螺話」は積まれていく、上に進んでいくものだともいえるだろうか。ダウナーとアッパー。水と火。地底に向かうものと、天上に向かうもの。
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夢は重力に逆らわずひたすら落下するもので、その際あちこちぶつかって火花がとぶみたいに唐突な場面展開をしていく。われわれの頭の中にはパチンコ台の釘みたいに無数の言葉(辞書に載ってる言葉だけでなく、勝手に交配して無限に繁殖し続けている言葉)が詰まってて、その中を私が転がり落ちていく。
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残雪の小説は「夢の話」的な方向に寄るときと「法螺話」的な方向に寄るときの両方ある気がするけど、それは一般に即興のやり方に「夢」っぽく落下していくのと「法螺」っぽく積み上げていくのと二つやり方がある、ということだと思う。『黄泥街』なんかはその中間というか、半々でやっている感じがする。