【日記超短編】境内を流れていた川

 母と弟が橋を渡ろうとしている。橋は小さな川に架かっていて、その川はわたしの実家の玄関と門扉の間を流れていた。子供の頃はこんな川はなかったはずだし、わたしは去年の夏にも帰省した記憶があって、そのときも川はなかったと思う。母に訊ねると半年くらい前に裏の神社の境内に川ができてしまって、境内では幼い子供たちも遊んでいるし、落ちたら危険だからうちで引き取ったという話だ。
「川を引き取ったの? どうしてそんなことうちがする必要あるわけ?」
 わたしが声を荒げると、弟があいだに割って入って「姉ちゃんは東京にいるから忘れてるかもしれないけどさ、このへんじゃいろいろお互い様なんだよ、うちだけ勝手は許されないんだ」そうたしなめてきたので、わたしは黙って川べりに立って水面を覗き込む。
 澄んだ水の中を小指よりも小さな魚が何匹も泳ぐのが見える。川は右手の竹林のほうから流れてきて、左手の沖村さんと杉田さんの家の隙間に消えていた。
 夕食後にわたしは一人で神社に向かう。家の前の道から左に分かれた坂道を、ずっと上っていくと神社に行けるのだ。ところが道は神社にたどり着かず、ぐるっとあたりを一周してふたたび家の前にもどってきてしまう。子供の頃は毎日、どころか一日に何度も遊びにいった神社なのに、大人になると行き方もわからなくなるのか。わたしは寂しいような腹立たしいような気持ちで、来た道を引き返していく。
 するとさっきは見つからなかった神社にあっさり行き着いて、わたしは見覚えのある境内に立っていた。イチョウやシラカシの大木に囲まれた地面を二つに割って小さな川が流れている。昔はなかった川だ。でもうちが引き取ったんじゃなかったの? わたしは川べりにしゃがんで残光に暗く輝く川面を覗き込み、小さな魚の影がひらひらと動くのを見た。からからから、と軽い音がしたので顔を上げると、子供の頃から変わらない黒ずんだ社殿が目の前にあって、その側面の壁にいかにも不釣り合いな、最近取り付けたような引き違いの窓が開いていた。
 その窓から母と弟が横並びに立ってじっとこちらを見ている。蔑むような、哀れむような同じ目つきでわたしをみつめるかれらの背後には、さっき一緒に食事をしたばかりの雑然とした実家の居間が覗いていて、つけっぱなしのテレビの画面がめまぐるしく色を変えて窓ガラスに映る。
 わたしは驚きのあまり声も出ない。どうしていいかわからず、二人のいる窓と向き合ったまま流れる水の音に耳を澄ませた。その水音に混じって、水を踏むような足音が聞こえてくることにわたしは気づく。水を踏む音と、水から足を抜く音。ひとつひとつの音の輪郭が鮮明で、その足音がしだいにこちらに近づいてきていることがはっきりとわかる。
 母と弟はわたしではなく、足音のするほうをみつめているのだ。

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