【日記超短編】一瞬の雨

 家庭教師のK先生はきまった日に家に来ることがなくて、いつも突然来て授業を始める。曜日だけでなく時刻もまったく予想がつかなかった。わたしはもともと夜更かしなのでいいけれど、他の家族が寝静まった明け方近くに現れてわたしを驚かせることもあった。かといってまるで常識がないというわけではなく、そんな時間に訪れたときは玄関のインターフォンを鳴らさない。じっとドアの外に立っているので私が気配に気がついて鍵を開けに行くのだ。すると先生はどんなときでも浮かべている真面目で優しい表情のままで会釈をして、わたしと並んで廊下を進むと無言でわたしの部屋に入って準備を始める。前回の授業は昨日だったり何か月も前だったりとまちまちだけれど、そのおさらいを少ししたあとで声を少し高くして「では、新しいことを覚えましょうね」と言う。わたしはもうだいぶ眠くなってしまって、新しいことがほとんど頭に入ってこない。だけど聞いているふりをして返事を続けていたら、先生はいつのまにか帰った後で窓の外は明るくて、わたしはそのまま一睡もせずに学校に行った。
 だけどこのあいだは珍しく先生と家の外で会った。親に頼まれてスーパーにオリーブオイルを買いに行ったら、先生が調味料の棚の前にしゃがんで品出しをしていたのだ。先生こんにちは、と声をかけたら顔を上げたけれど、不思議そうに目を細めてわたしを見ただけだ。先生は大勢の生徒を受け持っているから一人一人の顔なんて覚えてないのかもしれない。そう思ってわたしはがっかりした気持ちが表情に出ないように気をつけた。先生ここで働いているんですか? 大変ですね、お仕事頑張ってください。そう言って、仕事の邪魔にならないようにすぐその場を離れたけれど、年長の人にああいう言い方は失礼なんだっけ? まあ子供だし大目に見てもらえるかな。そう思いながら店を出て、駐車場を道路に向かって横切っている途中で急に雨が降り出した。土砂降りだ。あわてて店に引き返して、けっこう濡れたな、と髪に触っていたら買い物をまだ済ませていないことに気づいた。いつも使っているオリーブオイルを手に取ってレジへ行き、店を出ると雨はもう止んでいた。空には青空も覗いている。一瞬の雨だったのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?