【文章】トンネル式の小説について

これなら自分でも書ける、と舐めてかかれる小説もたまに読む必要があるけど、ナボコフとかチェーホフとか読んでるとこんなの絶対書けないのにそれでも「小説が書けそう」と思えてくるのがいい。たしかにこういうふうには書けないが、何かだいたい同じところにあるゴールにたどり着くことはできるはず、という気になるのだ。

カフカや残雪の小説は地面に穴を掘り下げるみたいで、どこかにたどり着くのを期待しない、その可能性は捨ててる書き方だけど、ナボコフやチェーホフやコルタサルが掘るのはトンネルで、山の形や大きさの見当もついてる書き方。だから読むと山さえ確保すれば後はどこをどう掘っても向こう側にさえ出ればいいんだ、と思える。

そのトンネル方式をふだん私が採用しないのは、山を自分で選べるという恣意性に耐えられず(何しろ定型という単一の既製品で満足してる歌人だ)、なら山のいらない地面掘り下げ式を採ろうというわけなんだけど、この方式の先の見えなさに倦むこともあるので、そういうときトンネル式が魅力的に映る。

短歌を書くことにちかいのはトンネル方式のほうなので、山を選ぶことじたいを楽しめたり、どんな山でもとりあえず掘ってみることを楽しみとするか、唯一の山の存在に縛られる(掘り方だけを毎回変える)ことができれば、「歌人」として書きやすいのはむしろこっち(トンネル方式)なのかもしれない。

短編のいろんなバリエーションを見せてくれる作家は「トンネルさえ掘れるならどんな山を対象にしても、どんな掘り方やルートを選んでもいい」と思えるからありがたいんだけど、描写が弱いと相対的にアイデアやストーリーが重くなって「どの山を選ぶか」「どういう掘り方、ルートを見せるか」勝負みたいに見えていやになる。

ナボコフにせよチェーホフにせよ、どんなアイデアやストーリーが持ってこられても描写がつねにそれらを上回ってしまうので、相対的にアイデアやストーリーの重みが減り「どんな山、どんな掘り方やルートを選んでもいい」というトンネルの自由=小説の自由がわーっと開ける感じがしてそこがいいところだ。

トンネル方式で書く醍醐味は、惜しげもなくつぎ込んだアイデアやストーリーを描写のアドリブで食い荒らしていくところ。でも読者というのはそれを読んでも描写の狼藉のことは意外なほど気にかけず、アイデアやストーリーの惜しげもなさに満足して帰ってゆくものなのだと思う。たぶん文章の咀嚼力の高い読み手ほどそう。

ナボコフ読んでると描写はアクションなんだなと思う。何も起きてないところでここぞとばかり言葉が踊り出し、暴れまわったり寸劇のようなことを始めたりする。

地面に穴を掘り下げる方の小説観だと、描写は厄介な義務みたいに思えて私にとって時に憂鬱の種でさえあるけど、山にトンネルを通すのだと思うと描写は手にした権利で、ここぞとばかりの自由の使いどころなんだと思えるかもしれない。

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