【日記超短編】園児

 金がないので近所をぶらぶら歩いて暇をつぶすことにした。我が家の周囲は基本的には荒れ野だが、たまに珍しい色合いの建物があって近づいてみると焼き鳥屋だったり、マッサージ店やガソリンスタンドだったりする。金も車もない私にはいずれも無用の長物だから、それらの建物はすぐ荒れ野の景色に紛れてしまい、私の散歩は意味もなく続けられることになる。
 広すぎる空には雲が浮かぶばかりで、巨大な誰かの笑顔が(たとえ幻覚でも)出現するような興味深い事態は訪れなかった。家族のいる人は帰宅すれば誰かの笑顔に迎えられ、たとえ幻覚でも夕飯のテーブルを囲んでしばし団欒の時を過ごすものかもしれない。だが温かみのある時間と引き換えに、様々な責任が両肩にのしかかり苦痛で表情が歪んでしまうし、子供の教育費などを考えると牛馬のようにこきつかわれる職場から逃げることも許されないだろう。それらが幻覚であることも忘れて、家族の笑顔だけを支えに頑張るという本末転倒に陥ることになる。思わず横から「あなたの見ているものはみんな幻覚ですよ」と口を挟みたくなるけれど、本当に家族がいて家族を養う義務を負った人物である可能性も捨てきれないだけに、私はぐっとこらえて「お仕事頑張ってくださいね」というメッセージを込めた微笑を無言で浮かべることしかできなかった。

 かつて私には今より財布にしっかりと重みがあり、銀行口座が虚無的な穴のように感じられていなかった、そんなすこやかな時代があった。ご飯に石ころや砕いた動物の骨を混ぜて嵩増しする、などという手間をかけず炊いた白米をそのまま食べていた当時、私の周囲にもたくさんの人がいて優しい笑顔を浮かべていたし、家の周りも荒野などではなく夜も煌々と明かりのあるコンビニや、活気あふれるディスカウントショップなどが犇めいていた気がする。
 やがて蝋燭の火が吹き消されるようにそれらの建物がぱたぱたと閉じられ、荒れ野が剥き出しになっていく過程と私の財布の空洞化は並行していた。そのことから「貨幣には幻覚作用のある成分が沁み込ませてあり、その流通によって人々に満遍なく為政者に都合のいい架空の世界を見せているのでは?」という疑いを持ったことがある。だが証明するには実験用の大量の貨幣が必要であり、実験が終われば返すからさ、などと知人に借金を申し込んでも信じてはもらえず「無職の人間に貸せる金なんてあるか!馬鹿!」などと口汚く罵られる始末。無駄に心が傷つけられるばかりで、当局の暴走を追及する気持ちもやがて萎え、今ではすべてがどうでもよくなってしまっていた。

 最近の心の慰めは、散歩中に黄色い通園バッグを肩から下げた幼児たちの姿を眺めることだ。
 少子化が叫ばれた時代がいつの間に去ったのか、最近はどこにいても同様の幼児を見かけるが、最後に民家をみとめてから三十分以上歩いたような土地でもそこかしこに、不規則な間隔で、かくれんぼの鬼でも務めているような姿勢でぼんやりと立っている。殺伐とした景色に似つかわしくない、可愛らしい人形のようなその姿を眺めていると世の中への理不尽な敵意が緩和され、かれらのために何か楽しい遊戯でも提案しなければ、という気持ちになってしまう。
 周囲に引率者もなく、泣いたり奇声を上げることもなく空き地にたたずむ幼児というのはいかにも現実離れしている。仮に何らかの薬物によって見せられている幻覚なのだとすれば、貨幣と縁のない者の住む地域にも空気中にそうした作用のあるガスが散布されていることが考えられるだろう。それは慈悲深い当局によって貧者が見ることを許された、末期の夢のようなものだろうか。その場合固定された幻覚がなぜ黄色い通園バッグを肩から下げた幼児なのか。この疑問を首相官邸宛てにメールでぶつけてみたが今のところ返事はない。首相がかなり多忙だということは、なんとなく察してはいるのだが。

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