【日記超短編】夏の世界

 東京という夏の世界に愚かなロボットが立っている。警察官の顔をしているが、東京の夏の警察署には警察官はいない。蚊柱とロボットが交互に光るのが夜の警察署で、建物の前の道路には蟻の群れとたくさんの沢蟹が過ごしていた。わたしは東京に来てから何度か警察の厄介になっているが、警察署のある山は低くて階段でのぼることができた。わたしはふもとに自転車を止めて、そこから歩いていったのだ。自転車には鍵をかけなかった。誰かに自転車を盗まれるところを想像するとひどく興奮する。そのためにバッグに替えの下着を持ち歩いている。人生はとても長くて苦しいけれど、時には自転車の前カゴに見知らぬ木の葉がどっさり溜まることもある。ヘルメットをかぶった女が大きなバイクに乗って坂道を下っていった。後頭部に「リンス」と太字で書かれていたから、ゆうべの洗髪後にリンスを使ったのだろう。わたしたちには他人から一目でわかることもそれなりに多いのに、いくら考えても他人にはわからないことがそれを上回っているために、結局はわかりあえないという絶望にたどり着き、心が水を含んだ毛布のように重い。
 今日は午後から雨が降るのでロボットたちはまた少し中身が錆びてしまうはず。かれらの愚かさがひそかに進行し、掛け算もわからなくなったかれらに無灯火の自転車を咎められるのは、さぞや物悲しい気分である。わたしは沢蟹を踏み潰す嫌な感触を気にしないようにつとめていた。やがてほんとうに気にならなくなった。警察の厄介になるたびに、沢蟹の数は道路から減っていった。怒りという感情や、とまどい、ときめき、東京都へのさまざまな思いは暑さのせいで忘れがちだが、空き瓶にたまった水に雲が映っていると、こんなところにも空があるのだと誰かに無性に知らせたくなる。その誰かがきみであったとして、どうだろう、そんなに真っ赤な帽子を地面に落として、たちのぼる埃、そして草いきれ。べつに驚かなくてもいいと思うのだが。

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