【断章】シミュラクラについて

フィクションというのは要するにあれだ、シミュラクラ。

短歌はシミュラクラ現象が起きやすい、つまり「顔」に見えるものがもともと発生しやすい形式という気がする。さらに作中主体の導入でフィクションとしての解像度を上げた、そのことへの後ろめたさが事実性へのこだわりを生んでいる側面もあるんじゃなかろうか。

私の説だと日本語は個々の発話者には「顔」がなく、それは発話を聞き入れた共同体から事後的に分配される。その「顔」のない日本語の不気味さを正確に枠どって暴く川柳に対し、短歌は77という「足」の存在で事後的にシミュラクラ的に「顔」も発生するため、日本語の正体の不気味さが覆い隠されている。

言い換えれば、シミュラクラを利用しているものはすべて広義のフィクション。言葉には「顔」にみえる配置というものがあり、一人称も三人称もこの「顔」に重なることでフィクションとして語り始める。

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