【断章】双六について
すごろく(絵双六)からゲーム性を排したようなものを小説でやりたい。たぶん2000年前後はデジタルでそういうことができるんではと夢見られてた気がするが(CD-ROM本ブームなど)、あれは結局錯覚だったということになって宙に浮いてるタイプの夢として、蒸し返したいような気持ち。
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すごろく(絵双六)のいいところは、プレイすることで解凍される物語性がそのままでも一望にできてしまうことだ。物語を解凍しないままで細部のエピソードの閉じた枠のそれぞれに入り浸ることもできる。そういうものとして小説(またはそれに似た何か)が書きたいし、短歌はすでにすごろくに似ている。
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小説より短歌の方がすごろくに似ているけど、すごろくが一枚の紙であることに定型性の行き止まりを持つのに対し、短歌はすごろくでいうマスの部分に定型性の行き止まりが重なるので、らくらくとすごろく的であるがゆえにすごろくとしては窮屈、みたいなところはあると思う。
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絵双六は絵なので全体が一枚の紙に収まっていることのゆるぎなさがあると思う。絵がなく文字だけ(または絵はあるが文字が主役)ですごろく的なことをやる場合、一望にされるべき全体は紙や本など物質ではなく言葉(たとえば「東京」という地名とか)によって確保されるべきかも。(「東京日記」!?)
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「東京」という地名で一挙に把握される全体。各マスとして「その一」から「その二十三」まで番号が振られ「日比谷」とか「九段」といった東京内の地名に枠どられている。それぞれのマスでは大鰻の出現とか富士山の噴火といったイベントが発生している。そういうすごろくとしての「東京日記」。
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双六もそうだけど、絵とテキストでできてるものを絵が描けないからテキストだけでどうにかできないか、と考えるのはものをつくるときの大事なモチベーションなことを思い出した。
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たとえば私は、本は挿絵や写真がいっぱい入ってる方がいいんだけど、テキストだけで「挿絵や写真がいっぱい入ってる本」がつくれないかな? と思う。歌物語的なものへの関心とそれはつながってて、短歌が挿絵の代わりにならないかな? という。
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「絵とテキストでできているもの」の理想に近いかたちはたぶん漫画で、私は漫画が書けないからずっと「文章で漫画を書けないか?」という無理難題のまわりをうろうろしつづけている。
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小説の描写が嫌いなのは、描写こそ小説の真髄みたいなのはその通りなんだと思うけど、だからこそ描写が入るたび小説は漫画から遠ざかってしまうという問題がある。