【日記超短編】とかげの日

 今日は誰かを顔がわからなくなるほど鉄パイプで殴打したのち、夜の砂浜でさめざめと泣いた。そんな一日を送ってしまったことにとくに理由はない。殴打された人物はさいわいただのマネキン人形だったようで、砂浜の焚き火にくべると衣類が燃えて、下からつるっとした何の突起もない肉体があらわれた。この世のさまざまな欲望のコードから距離を置き、がゆえにあらゆる欲望を周囲に引き寄せてやまない空洞のような身体。それが今は貪欲な炎の舌の餌食となり、夏の夜に汗ばむほどの熱気をもたらしている。

 星がぎっしりと詰め込まれた箱のような夜空。今日は誰かを顔がわからなくなるほど鉄パイプで殴打する前に、近所の公園に出かけた。娘を遊ばせるためによく訪れる場所だが、今日は家の中に娘が見あたらないので一人で来た。日陰の少ない公園で、よく晴れた真昼のせいか利用客の姿は一人もなかった。私はその場で初めて会った他人を物陰から観察し、彼や彼女の人生のしかるべき瞬間に、絶妙なタイミングで介入する自分を想像するのが趣味だった。子供を私立の小学校に入学させた直後に勤め先の会社が倒産し、さらに配偶者が公衆トイレで盗撮事件を起こし逮捕、おまけに両親が町内会費を使い込んで多額の賠償を請求されたまま行方不明になるなど、将来を照らすあらゆる光を奪われて立ち尽くす人の前に「ドッキリ大成功」と書かれた手製の看板を持って登場。すべてはただの悪質な冗談だったという安堵が、つかのま世界を優しい光で包むさまを見届けると、自分の掲げる看板と空に浮かぶ雲の見分けがつかなくなるほど涙が止まらなくなる。今日の日中、公園でそんな空想に存分に浸る機会を奪われたことが、今私が声もなく涙を流している理由の一つかもしれない。

 気がつくと、私に殴打された人物は焚き火の中から身を起こし、変形して顔がわからなくなった頭部をおそらくこちらに向けてじっとみつめている。
「今日はとかげの日だ」
 はっとして見つめ返す(だが顔がわからないのでどこを見ていいのか困惑している)私に、その人はぱちぱちと音をたてて燃えながらそうつぶやいた。言葉の意味を考える前に私はすばやく腕時計を確認する。すでに日付は変わり、深夜一時を回っていた。ということは「とかげの日」とやらはこれから二十三時間ほど続く新しい一日のことを指しているのだろうか? 訊ねようと思ったが焚き火の中にその人はふたたび身を横たえ、楽な姿勢で急速に全身が焦げていきつつある。それからはもう「とかげの日というのは日付が変わって今日のことですよね?」といくら声をかけても、返事は返ってこなかった。

 それからの一日を、私は何かに怯えるように縮こまった姿勢で過ごした。復讐のために鉄パイプを携えたとかげ人間(二足歩行する、とかげそっくりの凶暴な人間)が電柱の陰などから突然襲いかかってくるような気がして、とても外出する気にはなれなかった。それでもつい気がゆるんで散歩や買い物などに出かけたことが数度あり、そのたびいつもより道端から歩道に飛び出してくるニホントカゲやカナヘビの数が若干多い気がしただけで、特筆すべきことは何も起きなかった。
 それらの小さな生き物たちは私の足音を聞くと、一目散に草の中へ逃げ帰っていったのである。

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