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99 異質と異質

 日がゆっくりと落ちゆく頃、地面を踏み鳴らす静かな音に包まれる道を歩いていた。
 ジャリッ、ジャリッ

 シュレイドは寮への帰り、固く閉ざされた剣の鞘を掴み、ぎゅっと握り締めてその重みを改めて意識する。

 空へと向けた視線は青と赤、そして黒の混じるコントラストを映していた。

 靄のような雲の白色は、今は別の色へと変わりつつある。
 光の加減で地平に近い雲は怪しげな紫の異様な雲となっており、その違和感に胸がズキリと疼く。

 鞘を掴む指に力が込められる。

 この時間になると嫌でも思い出してしまう。
 夕暮れ時にいつも剣を無心に振り続けていた人影。

 ゼア・クレアスクルの事を。

 毎日毎日、寮の部屋の窓辺から視界に入っていたその人影は単騎模擬戦闘訓練オースリーでの戦いの最中に剣筋に気付くまでは誰だか分からなかったが、間違いなくゼアその人だった。

 単騎模擬戦闘訓練オースリー以降、鋭く空を切り裂く音と流れるようなその無駄のない動きをする人影をパタリと見なくなった事で、確信するに至る。

 よぎる過去を払拭するように大きなため息を一つ吐き、シュレイドが再び歩き出そうとした時、肌がピリピリとする感覚が雷鳴のように頭上から体内を走り抜けていった。
 
 咄嗟に鞘に入ったままの剣を身構えてしまうほどの緊張感が沈みゆく光と相反するように膨れ上がる。

「なんだ、これは」

 シュレイドの額から脂汗が流れる。周囲を警戒して意識を研ぎ澄ませる。
 風に乗って小さな音色が耳へと届いてくる。

 これは声だ。女性の声。
 
「愛おしい、狂おしい」

 フラフラとよろめきながら歩く人影が見えてきた。
 目を凝らすと細身の少女が風に逆らわず靡くようにこちらへ向かってくる。
 呟きながら少女は道の途中にあったベンチへと腰掛け、腕で自らの身体を抱き込んでカタカタと震え始めた。

「ああ、痛い、痛い」

 笑みを浮かべてはいるもののその目からはツーっと涙が零れ続ける。
 それを見たシュレイドは静かに構えと緊張感を解いて、近づいた。

 まるで怪我をした猛獣のように見えた。昔、森で遭遇したことがあるその佇まいによく似ている。
 更に言えば目の前の少女が昔のメルティナのように見えたせいもあるだろう。心なしか髪色も同系色な気がして警戒を解いた。
 
 落ちかけている光が映すその幻想的な姿は現実の景色とは思えないほどに少女を美しく彩っており意識をその少女から視線を切る事が出来ないでいた。

 彼女が呟いている言葉がまるで今の自分の心のようにも感じられ、胸の辺りを掴んだ。

「痛い、か」

 一言呟いたシュレイドは自分と同じように何かに苦しんでいるであろう少女をどうしても放っておけなかった。

 驚かせないようにわざと足音を立ててベンチに近づいて声を掛ける。
 
「大丈夫、か?」

「……大丈夫? なにが?」

 少女の双眸がシュレイドへと向けられる。
 血のような赤黒い眼。
 とても薄い緑の髪がふわりと揺れる。

「なんか、その、痛いって聞こえたから。どこか怪我してんのか?」

 声を掛けられた少女は、時間が止まったかのように瞬き一つしない。
 シュレイドがどうしたものか困っていると、薄く唇の端を吊り上げて笑い出した。

「ふふ、うふふふ、痛い、とても痛いわ。だけど、どうしてわざわざ声を掛けたの? まさか私が誰だか知らないの?」

 そう言われたもののシュレイドに心当たりはない。自分が直接関わるような人物でない限り、ほとんどの他の生徒の事など気にかけたことはこれまでなかったからだ。

「え、や、悪い、知らねぇ」

「知らない? くく、あはは、ひゃははは。そうよね、でなきゃ私に声なんてかけるはずないもの」

 微かに寂しげな目をした少女をシュレイドは見逃さなかった。

「いや、笑う事ねぇだろ。この学園人が多すぎるんだよ、仕方ねぇだろ」

 そうして何気ないやり取りをしている間に、彼女の表情に変化が起きていく。

「……あ、れ? え? ねぇ、あなた、今、私に何かした?」

「え? 何かって?」

「おかしい、いつもよりうるさくない。それに痛みも、そんなにない」

 目の前の少女は不思議そうに自分の身体に手で触れていく。
 頭、髪、耳、鼻、唇、顎とゆっくりと自分の指でなぞるように触れていく。

 首筋、鎖骨、胸元

 そこまで来た時、シュレイドは咄嗟に視線を足元に落とした。
 耳に布ずれの音が聞こえる。どうやら自分の服の中に手を入れて肌にまで直に触れているらしい。

「お、おい、ここ外だぞ、何やってんだおまえ!」

 視線を逸らしながら真っ赤になったシュレイドがそう言った直後、その顔を両手で掴まれた。
 耳に触れる手の平は温かく、そのぬくもりからは優しさが伝わる。
 グイっと彼女がシュレイドの顔を自分の目の前へと振り向かせると吐息がかかるほどにその距離は近くなる。

 ドクン、ドクンと心臓が跳ねる。

 艶めいた暗い笑顔、彼女の淀んだ赤黒い眼。身体が硬直したように彼女から視線を外せない。

「ねぇ、あなたは、魔女なの?」

 突然そう問われたが何の脈絡もないその質問の意図が分からない。

「え? いや、違うけど」

 素直にそう答えてみる。当然、自分は魔女などでは決してない。そもそも魔女は確かもうこの国にはいないというような事をいつかの授業では聞いていた気がする。

「どういうこと? わからない」

 顔を掴んでいた手を離して、シュレイドの耳からツーっと静かに頬へと指が撫で下ろされ、首、鎖骨、胸に来た時、ピタリと止まる。

「ちょ、おま」
 
「ねぇ、貴方はどうして核が一つじゃないの?」

 そう言うと、驚いた表情のままで見つめ続ける。
 まるで吸い込まれそうなその瞳。
 だが、彼女が話す内容に関しては先ほどからよく分からない。

 魔女、核、といった単語は聞き取れはするが、その会話の話題は何を意味するのかシュレイドにはまるで分からない。

「核って?」

「そう、どうして一つじゃないの?」

「いや、しらねぇよ。そもそもなんなんだよ核って」

 先ほどと違い柔らかくにっこりと微笑む目の前の少女の髪がふわりと揺れる。

「不思議。あなたといると痛みが和らぐ、懐かしい感覚」

「質問は無視かよ、、、痛みが治まったのか? ま、そりゃよかったけどさ」

「完全には消えないわ、でも、とても穏やか」

「よかったな」

 その言葉を聞いて彼女の視線が鋭くなる。殺気などは込められていないが一般の女子生徒が出来るような眼では到底ない。

「よかった? ダメ。痛みがなければ、私は」

 また途端に再びカタカタと震え出す。

「お、おい」

「離れて!!!」

 突き飛ばされた瞬間に身に受ける衝撃がおよそ細身の少女から放たれる力の強さではなく、油断していたシュレイドは受け身を取り損ねて転がる。

「いって、すげぇ力だな」

 そのまま転がる力を殺さず、地面をタイミングよく手で力強く押してシュレイドは空中へと飛び上がり、くるくると回ってうまく着地するが軽くふらつきがあった。

「ああ、ごめんなさい。でも、私にはこの痛みが必要なの。わかってくれる?」

「いや、さっきから話が全然わかんねぇけど、痛みが必要ってどういうことだよ」

 再び質問に対して長い間が発生する。どうにも会話のテンポが心地悪い。何度か瞬きをした後に彼女はベンチから立ち上がり、スカートの裾を小さく掴んでペコリとお辞儀をした。

「貴方が知る必要のないこと。でも、私に束の間の安息の時間を与えてくれたことには、感謝を」

 そのまま静かに首を垂れ続ける。短いやり取りでシュレイドは彼女に興味が湧いていた。

 痛みが必要という言葉。今のシュレイドはその痛みを消し去りたいとさえ思っている。
 でも、目の前の彼女は自分にとっては痛みが必要なのだという。
 その心は、考えが一体どこから来ているのかを知りたくなった。

「その、おまえ、名前は?」

 何気ない一言だった。目の前の彼女が驚いたような表情で目を丸くしたあと目を細めて微笑む。

「懐かしい」

「え?」

 いたずらっぽい笑みを浮かべ彼女は小さな唇を動かした。

「WH000(ダブリューエイチトリプルゼロ)」

「は?」

 シュレイドは反応に困った。これは何かの冗談なのか、笑うようなところなのか、それとも真面目に返すところなのか。

「あー、えっと、その、お前の事はなんて呼べばいいかと聞いたつもりなんだけど?」

 その返答に彼女はとても嬉しそうな顔でうっとりと高揚し、笑みを浮かべた。
 恍惚な表情を浮かべて何かを思い出し、想起した記憶を咀嚼するかのように、味わうようにシュレイドを通して自分の記憶の中にある何かを見ているようだった。

「……グリム」

「分かった。グリムっていうんだな」

 その返答にも彼女は嬉しそうにして笑っていた。ただその怪しげな笑い方はシュレイドが慣れておらず、彼はただ愛想笑いを浮かべるしかなかった。

「ねぇ?」

「ん?」

「少しだけ、貴方に興味が湧いた。あなたの名前は?」

 相手も自分と同じような事を考えていたのだろう。
 そして気付く。

 名前を聞いてくるということは相手は自分の事を知らない。
 そこでも小さく淡い期待が膨らんでいく。

「シュレイド・テラフォール」

 あえてフルネームで名乗るシュレイドの名前を聞いてもピンと来ていないようでまた何かを考え事をしている様子であった。

「シュレイドね。ひとつお願いがあるのだけど」

 そう言うとためらいもせずに話を切り出してくる少女。
 この対等な感覚は嫌いではなかった。

「なんだ?」

「私と満月の夜にだけ、会ってくれない?」

 またしてもよく分からない相談だった。

「満月の夜に?」

「疼くの」

「何が?」

「身体が」

「痛みが増すって事?」

「そう、貴方が近くに居るとなぜだか痛みが和らぐ」

「この痛みは必要なものだけど、満月の夜だけは狂いそうになるの。眠れないほどに、だからその時だけでいい」

 シュレイドは首を捻る。正直、少女に何があるのかは分からない。
ただこうして誰かにお願いをされるというのはこれまでにそう何度もない自分を頼ってもらえているような気がしてぶっきらぼうに答える。

「まぁ、覚えてたら」

「ふふ、覚えていなくてもいい。その時は私から行く」
 
「近くに居ればいいだけってんなら別にいいけど、本当に大丈夫なのか?」

「大丈夫……ありがとう」

 最後にそう言うと彼女はゆっくりと立ち、別れの挨拶もなく振り向き、トテトテとベンチから去っていく。

「ああ、愛おしい、狂おしい」
 
 暗がりで視界の悪くなる中で小さくなる背中をしばらく見えなくなるまで眺めていた。

「色んな奴がいるんだなこの学園には。にしても今日は変な奴と出会う事が多いな」

 自分が置かれている環境の変化を改めて思い返す。

 もう昔とは違う。

 何もかもが違い過ぎる。

 シュレイドはグリムが座っていたベンチへと向かい座り込んだ。
 微かに残る温かさは彼女が異質な存在ではない事をシュレイドに告げる。

 いつの間にか日は落ちて、辺りは暗くなっていた。

 見上げた空に心で問うても返事などしてくれない。

 星は遠くただ、輝いている。

 静かに、輝いている。

 シュレイドは満天の星に祈るように静かに、そのままゆっくりと瞼を閉じた。



続く

新野創
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