![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/146434031/rectangle_large_type_2_ae1c97f3514dc6dbb234e17287c993f5.jpeg?width=1200)
普通の人々
今年は高峰秀子の生誕百年、ゴールデンウィークに東京タワーで開催されていた展覧会を見てきた。五歳で映画に初出演し、五十五歳で引退、その間三百本以上の映画に出演したという。「二十四の瞳」や「浮雲」が特に名高い。個人的には、「妻の心」や「張込み」が好い。昭和を代表する大女優であるが、デビューからずっと、自らの意思によらず周りに振り回され、不本意な半生であったようだ。それはご本人のエッセイ、「わたしの渡世日記」に詳しい。高峰秀子は、他にも多くのエッセイを書いており、その外連味のない書きぶりには惹き付けられる。展覧会では、彼女が大切にしていたという、小さくて黄色いガラスのカタツムリ(まいまいつぶろ)の表情がよかった。
満足に学校にも行けず映画に出ずっぱりだった高峰秀子だが、「女優以外に何も残らないような人にはなりたくない」というようなことを書いている。それはもちろん、だからエッセイストになりました、と落ち着くわけではない。アーティストには、その芸を究めようと、時に普通の生活を犠牲にするといった、執念の逸話が語られることがある。おそらく高峰秀子には、そうした非日常的な資質はなく、むしろ「普通」への憧憬とこだわりをもち続けた人だったということではないか。そうした人柄であったからこそ、デコちゃんは時代を超えて多くの人に愛されてきたのだと思う。
ところで私はどうだろう、大学を卒業して何の疑念ももたずにサラリーマンとなり、役員になるようなことはなく、かと言ってクビになるような失態もなく、四十年近くを勤め上げ、齢六十を超えた現在、週三日の仕事を続けている。ほら、一文で書けちゃう、「普通」でしょ。
そもそも「普通」って何なんだろう。適当なことを適当に言うのに便利な言葉である。はっきりと意見を言えない、言いたくないときにも重宝する。思えば私は、そんなことばかりで幾多をやり過ごしてきた。どうやら、経歴ばかりか態度も普通だったようだ。
「普通の人々」という映画がある。1980年の作品で、監督はロバート・レッドフォード。アカデミー作品賞と監督賞を受賞した。原題は「オーディナリー・ピープル」という。私はずっと、四〇年以上も「コモン・ピープル」だと思っていた。EL&Pの「ファンファーレ・フォー・ザ・コモン・マン(庶民のファンファーレ)」と混同していたのかもしれない。辞書をみると、「普通の」はもちろん、他に「通常の」とか「ありふれた」とか、微妙な違いはあるが、日本語だとどれでもいけそうである。他にも「ふつうの人々」という作品があって、これは「ノーマル・ピープル」らしい。ノーマルの逆はアブノーマル(病的な)であるから、こちらは随分とニュアンスが違うんじゃないか。
さて、映画「普通の人々」では、長男の死によって、家族の幸せが軋み、崩壊へ向かっていく。気持ちの擦れ違いが続き、家族の抱える問題が表出する。はた目からは幸せそうに見える家庭が、実はそれは演出にすぎず、真の幸福からは程遠く歪んだ関係であることが切々と描かれていく。その問題は、実は長男の死以前より内在していた……
この家族は前提として、シカゴ郊外に広い庭付きの大邸宅に住んでいる弁護士一家であり、上流エリート家庭である。いわゆる「普通」を抜け出ているのではないか。「お前んちは恵まれているよ、全然普通なんかじゃないよ」という気がする。「他にもっともっと普通の人がいるんじゃないの?」
でも、この家族が珍しいかというとそんなことはなく、アメリカには一定数のこうした「普通の人々」がいるのだろう。WASPと呼ばれた人たちだ。この映画は、「WASPのような普通の人々」の話なのである。だから「コモン・ピープル」ではなく、「オーディナリー・ピープル」なのだろう。
翻ってサラリーマン、その立ち位置はどうだろう。サラリーマンと言えば、きわめて多人数の集団であり、メディアでも普通の人々の代表例のように扱われる。しかし大企業に勤める者と中小企業のそれとでは、その生活は随分と異なるだろう。また、例えば商社とメーカー、いや、同業であっても、勤めている会社ごとに勝手が違うはずだ。私はかつてA社の重電部門に勤務していたが、競合相手であったB社との間で合弁会社が設立され、私も転籍した。また、別の競合他社であったC社とコンソーシアムを組んで発電所建設を目指したこともある。大手重電メーカーとして一括りにされることの多いB社、C社の人の知己を得たが、それぞれの事情、社風があった。上司のムチャな命令に対する反応が自分の会社とは随分と違っていて戸惑ったことがある。さらに、同じ会社の中でだって、殊に大きな会社だと部署ごとにそのありようはいろいろだろう。サラリーマンだからと言って、十把一絡げにすることはできない。
つまり、「普通の人々」と呼ばれる人たちには、そう呼ばれるための一定のスペクトルがあるということだ。報道番組で、コメンテーターがサラリーマンの事情を語るとき、一サラリーマンとして違和感を覚えることがあるのはそのせいである。自分に当て嵌まることばかりではないからだ。
サラリーマンの誰もが雇用延長を望んでいるわけではない。決めつけないで欲しいものである。
「普通の人々」は一定の幅の中に散在しているわけだが、その一人一人はみな異なっている。つまり「普通の人」はいない。私は自分のことを普通だと思っているが、当然のことながら私と同じ人はいない。人はそれぞれである。どんなに平凡そうに思えても、それは唯一無二の自分、個性なのである。その個性を抱き、時に変えようともがき、そうして歩んでいくのもまた自分だけだ。
ただ一人の自分をもっと生き生きさせたいものだ。しかし某、普通の人々の一人に過ぎない。一体何ができるのか……
よく、長年働いてきたのだから、その経験を生かして若い人の相談に乗ればよいとか、「働かないおじさん」対策として言われるけれど、そんなことしなくても会社のシゴトってものはたいてい回っていくものである。若い人にとっては、「余計なお世話」でしかないことが多い。それに私には、そうしたこれまでのシゴトの延長線上に立ち続けることへのウンザリ感がある。
だったら仕事以外の経験を生かせればよいのだが、なんてったって普通の人々、波乱万丈の半生を送ってきたわけでなし、語って喜んでもらえるようなことは何もない。もっとも、それは責められることではないだろう。巷間、「苦労は買ってでもしろ」なんて言われるが、そんなムリはしないほうが断然よい。大きな苦労をせずにやってこられたことは悪いことじゃないでしょ。
何しろ普通にサラリーマンしてきただけなのだ。
いろんなことに関心があり、手を付けてきた。いくつかの資格に手を出したり、小説もどきを書いてみたり、PCで曲を作ってみたり。週末には随分と町歩きをした。しかし、何も大成していない。ちょっと興味をもったところで、頑張って掘り下げない。仕事のせいにして中途で投げ出してきた。
何かやりたい。でももう時間がない。そう思っている普通の人々は多いのではないか。
少なくとも、もう仕事を続けている場合ではないだろうね。
普通ではない人々は、世間に広く影響を及ぼしうる専門家である。一方、普通の人々は何事にも中途半端、その知識は聞きかじりが多い。それは多方面にわたるかもしれないが、浅くてはかないものである。それぞれの分野の専門家にはもちろんかなわない。そもそも持論ではないし。
さらに普通の人々の難点は、いろいろなことに生半可な知識しかない、正しく記憶・理解していないため言葉にできないこと。そう、うまく説明できないのだ。固有名詞なんてほとんど出てこない。本を読んでも面白かったとしか伝えられない。いったい何が面白かったのかしら。報道番組で、コメンテーターが知識を披瀝し持論を展開する。私には、その内容はともかく、理路整然滔々と話す、それだけで曲芸に思える。ピアニストが素晴らしい演奏をするのを聞くと、そのパフォーマンスに圧倒される前に、よく間違えないなあと感心する。
中途半端、不正確な記憶と知識でいったい何ができるのか。
それでも普通の人々は、自ら意見を発信すべきである。専門家は、その分野の探求に多大な時間と労力をかけるので、その分専門外の領域に足を踏み入れる余裕がないかもしれない。普通の人々の方がいろいろ進出しているやもしれぬ。プレーはできないかもしれないが、あたりを広く見渡して、「これって、ちょっと普通じゃないんじゃないの」って意見を言えるのは普通の人々の特権ではないか。また、専門家の間では、所与のものとして今更説明されないことも、普通の人々はどしどし尋ねればよろしい。
一人の普通の人(正確には、普通の人々の一人)が発信し、それにもう一人の普通の人(正確には普通の人々のもう一人)が呼応する。ますます守備範囲は広がっていく。そうした化学反応の連鎖があればしめたものだ。専門家を超えて、限界を迎えつつあるあまたの難題をよりよく考えるきっかけになるのではないか。さらには普通でない人々の再考を促せるかもしれない。
昨今の状況を見るに、専門家に任せてばかりでは「普通」が維持できないような気がしている。いろいろな「イヤな感じ」を「普通の人々」として発信していきたいものである。
#創作大賞2024 #エッセイ部門 #普通の人#定年#働かないおじさん