上海で日々死んでいく難民たちとジャキノ神父
ジャキノ神父が30万人の支那人難民のために避難区域を作られたので日本軍・支那軍ともにこれを認めました。この試みは成功事例としてジャキノ・ゾーンとして歴史に名を残しました。
11月14日に大日本帝国陸軍松井司令官が1万円、11月16日に大日本帝国海軍の長谷川長官が1万円をジャキノ神父の難民救済費として寄贈しています。当時の兵隊の給与は『日本陸海軍総合事典』によれば、少尉850円(年額) 二等兵6~9円(月額)であったので1万円は現代の価値にすれば1000万円を優に超えていた金額となります。
陸軍と海軍は武功を争っていたようですが、このようなところでも競い合っていたんですね。ちょっとほほえましくなるお話でした。
日本軍の難民救済支援金があっても、救済対応できず、亡くなられていた人がいたようです。
1937年11月26日 朝日新聞は上海で日に200名もの餓死者が出ており、上海事変でのこれまでの死者は1万8千人、このうち1万2千人は小児の死体であったと報じています。
ジャキノ神父は救済活動をする中で餓死していく小児たちを見てこの戦争始めた蒋介石に対して人道の敵という思いを繰り返し思わされていたのではないでしょうか。
この戦争を始めた蒋介石の責任は重いと言わざるを得ません。
第2次上海事件1年後に朝日新聞記者にジャキノ神父は蒋介石は人道の敵と語られています。