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ベイツ宣教師の嘘

日本軍が南京侵攻した時、南京大学の副学長であったマイナーシールベイツ氏はYMCAに加わっていたアメリカの宣教師で彼の妻と彼の子供2人は日本に滞在していました。日本への7回の短い旅行とスペインへの1回の旅行を除いて、ベイツ氏は1937年から1941年まで南京に留まりました。

戦後、彼は東京裁判と中国の裁判で証人として召喚されます。

ベイツは、1938年すなわち『戦争とは何か』を分担執筆した年と、1946年すなわち東京裁判で証言をした年に、中華民国政府から勲章を授与されている。ベイツは宣教師であり南京大学教授であったが、近年の史料発掘から中華民国政府の「顧問」であったことが判明しています。

ベイツ氏の東京裁判での嘘


『謎解き「南京事件」東京裁判の証言を検証する』という言う本の中で
これほど荒唐無稽な証言はないと書かれたベイツ氏の証言

中国兵が72時間のうちに3万人以上が機銃掃射された。

飯沼守上海派遣軍参謀長は口供書でこう証言しました。
「私は上海派遣軍参謀長として、部下各隊に対して南京攻撃の命令を伝えるとともに「敵軍といえども抗戦意思をうしないたる者および一般官民に対しては寛容の慈悲の態度をとり、これを #宣撫 ・愛護せよ」と伝えました」

謎解き「南京事件」東京裁判の証言を検証する

南京でも行われていた捕虜の解散式の記録

ひと目目でわかる日中戦争時代の武士道精神

ベイツ宣教師は日本兵の強姦数を8000と言ったが、国際委員会の文書と自分の調査だと言っているが、国際委員会の文書では400でした。

謎解き「南京事件」東京裁判の証言を検証する

当時のアメリカの新聞NYTには
『南京の金陵大学に難民福祉委員会メンバーとして残留のアメリカ人教授らは、便衣と成った中国軍大佐とその部隊所属兵6人を自分達が匿っていたのが見つかったことで非常に当惑している。実際、教授らは、その大佐を難民キャンプでの権威ある立場の二番目に据えていた。
中国軍の南京からの退却中に制服を脱いだ将校(士官)らは、大学の建物の一つに住んでいるところを発見された。 日本陸軍の捜索者が、6つのライフル、5つのリボルバー、取り外された機関銃と弾薬を建物に隠していることを発見した後、彼らは自分らの身元を白状した。
アメリカ人や他の外国人の前で、元中国人将校は南京での略奪行為、またある夜には少女たちを難民キャンプから暗闇に引きずり込んだことを告白したが、翌日にはその襲撃を日本兵の所為にした。 将校であった者達は逮捕、戒厳令下で処罰され、おそらく処刑されるであろう。』
と書かれている。

1938年のニューヨークタイムズ報道

これらの情報から、ベイツ宣教師の歪曲した先入観が透けて見えてきます。

日本軍は松井大将が南京で強姦した兵士は厳しく裁いており、兵士から不満が出るほどでした。

また日本では次のような報道がありました。
これは、NYT報道の1ケ月後で日本軍が1938年2月にベイツ教授を含むアメリカ人宣教師たちが作っていた南京安全区が犯罪の温床となっていると想定し南京安全区の解散(難民たちの帰宅)を命じた後の報道になります。

ちなみに、日本が先の大戦で破れた時にアメリカの進駐軍による強姦事件は1日で315件におよびました。

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