こうすればいいのに
アイデアはひらめきなどという言葉がよくあるが、先人のひらめきに埋め尽くされた21世紀にとってその言葉は遺物となっているように感じる。今現在あるものをよりよくするのが昨今のデザインのオーソドックスだ。
美大に入学して二年半、「こうすればいいのに」が思い付かなくなった。なんなら幼い頃の「こうすればいいのに」という感情を思い出すことさえできない。
美大に入ると自分が普通の人間であるということを痛感させられる。美大の人間は私たちは普通じゃないから、個性的な集団だよねが口癖だ。
変わってなきゃいけない、自分しかない視点を持っとかなければいけないという圧力に負けて、息が詰まるような思いだ。
よくこんなところに目をつけたね。
先日の講評で専門家の方が声をかけてくださった。顔がカーッと熱くなり乾いた笑顔が張り付く。その時は嬉しい気持ちはあれど、緊張で喜びより相手とのコミュニケーションに重きを置いてしまった。嬉しい言葉をくれた方に、その返事や反応で言葉を貰った私と同じくらいの喜びを与えようと考えてしまうのは私の癖だ。
しかしよくよく考えると、この言葉は私が求めていた言葉だ。人の作品、人の言葉に触れて私には到底これができないと心の自傷行為に走りがちだが、物事には必ずプロセスがある。他人のプロセスは見えないのでパッと閃いたように見えるが、必ず背景はあってその背景に苦しめられるがあまり自分にはひらめきがないと決めつけていたのかもしれない。
私にも「こうすればいいのに」があるのかもしれない。