【中尊寺金色堂×STEAM】仏像とそれを取り巻く歴史、仏像の特徴は?
現在、東京国立博物館において、「建立900年 特別展『中尊寺金色堂』」が開催されています。中尊寺金色堂は藤原清衡が建立した仏堂で、堂内中央と西北隅、西南隅に三基の須弥壇が設けられています。
須弥壇上には阿弥陀如来を中心に、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩、左右に3体ずつ地蔵菩薩が並び、最前列には持国天と増長天と合計11体が1組となって3つの須弥壇にそれぞれ安置されています。
中尊寺金色堂の阿弥陀如来の特徴
中尊寺金色堂中央壇に安置されている阿弥陀如来坐像は、ふっくらとした頬を持つ、穏やかで優美な表情が特徴です。
金色堂内の3つの須弥壇に安置されている仏像は、長い歴史のなかで入れ替わっているものもありますが、中央壇の三尊像(阿弥陀如来坐像、勢至菩薩立像、観音菩薩立像)は、当初より中央壇に安置されていたと考えられています。
中央壇の阿弥陀如来坐像は、ヒバもしくはヒノキの寄木造りでお腹の前で手を組んでいます。
ヒノキは福島県より南、四国から九州屋久島あたりまで自生していますが、大雪が苦手なため寒冷な東北や北海道、日本海側にはあまり自生していません。そのため、もし材質がヒノキだった場合、どこか別の場所で作ったか、もしくはどこからか材木を運んできた可能性があります。
また、この阿弥陀如来像は、当時の流行の最先端だった可能性があります。
そう考えられる根拠は次の2つ。
ひとつ目は仏像の頭髪部分、螺髪(らほつ)が左右に振り分ける逆V字方になっていることです。これは、のちの慶派仏師が得意とする鎌倉時代以降に流行する形式で、平安時代に螺髪をV字型で表現したものは、現在のところ金色堂の阿弥陀如来像以外には確認されていません。
ふたつ目は、阿弥陀如来像の右肩に掛かっている袈裟が、別の素材でできていることです。
これは鎌倉時代に流行した「裸形着装像」に近い感覚があります。
裸形着装像とは裸または下半身に下着や裳を着けているような状態で彫り、布製の着物を着せた木彫像です。いわゆる生身(しょうじん)信仰による造像ではないかと推測されます。
この時代、京では保守的な像が多くつくられていたことを考えあわせると、奥州藤原氏には、前例に捉われずに新しい形式や信仰を受け入れる先見性・柔軟性が備わっていたと考えてもいいかもしれません。
仏像の材質と作り方の違い…一木造りと寄木造り
仏像は、制作した時代によって材質が異なります。
塑像や乾漆像は白鳳時代末期に流行りはじめ、天平時代に多く作られました。一木造りは平安時代前期に多く、平安時代後期には寄木造りが増え始めます。
塑造とは粘土で作った像、乾漆像はウルシを使った像です。
木彫りの仏像は平安時代以前からありましたが、平安時代以前の木彫り仏像は仏像と台座を別の木材で作っていました。
その後、奈良時代後期から平安時代前期にかけ作られた像は、いかにもかたい材料から掘り出したかのようにかっちりとしたものが多い傾向にあり、一本の木材を利用した「一木造り(いちぼくづくり)」の仏像が増えていきます。
一本造りの仏像は、頭を含んだ像の中心部分を一本の材木から掘り出していきます。立像の場合には一本の木から作ることができますが、坐像の場合には膝の前部分や腕など別の材木で作られていることもあります。
日本のように一年を通じて温度や湿度が上下する場所では干割れが生じやすい傾向にあるため、干割れを防ぐために背面や像の下から内部をくり抜いている場合があります。仏像を観たときに干割れが存在していたら一木造りの可能性が高く、平安時代前期に制作されている可能性があります。
平安時代後期になると、仏師・定朝により仏像の作り方は一木造りから寄木造りにと変化していきます。中尊寺金色堂の阿弥陀如来坐像も寄木造りです。
寄木造りは頭を含んだ像の中心部分は、同じくらいの大きさの2本以上の材木を積み木のように組み合わせてから掘り出していく作り方です。
この時代、浄土信仰が高まり身分の上下関係なく阿弥陀如来像の発注が増えたことから、「より早く」仏像を作り上げる必要が生じました。寄木造りをすることで分業して作ることができるようになったため制作時間が短縮。大量発注にも即座に対応できるようになりました。
世界で初めて仏像が作られたのはいつごろ?
仏教の開祖・釈迦は偶像崇拝を禁止していましたが、釈迦の入滅から約500年が経過した紀元1世紀ごろ、インド北西部のガンダーラ地方(現在はパキスタン)で、世界で初めて仏像が作られたとされています。
最初に作られた仏像は、仏教の開祖・釈迦をモデルにしたものですが、仏教が生まれたのがインドであることを考えると、インドというよりはギリシャ彫刻を思わせる顔立ちをしています。
その理由はガンダーラ地方の歴史にあります。
紀元前6世紀〜11世紀にかけ、現在のアフガニスタン東部からパキスタン北西部にかけて存在していた「ガンダーラ王国」は、1世紀から5世紀ごろに仏教を信奉したクシャーン朝で最盛期を迎えました。
西側から見るとインドの入口にあたるガンダーラ王国は、東西の交流地点となり国際都市として発展。このころに移り住んだギリシャ系民族が西方の文化を伝えたと考えられます。
彫の深いギリシャ風の顔立ちをしている初期の仏像はギリシャ文化の影響を受けたものと推測されます。もしかしたらギリシャ系移民によって作られたのかもしれません。
日本の歴史と仏像
先述したように、仏像は時代ごとに材質が違い、作り方にも変化が出てきます。仏像の作り方や雰囲気が変化する背景には、どのような歴史があったのでしょうか。
飛鳥時代
日本に仏教が入ってきたのは552年、もしくは538年という説が有力です。このころの日本は飛鳥時代。当時の天皇である欽明天皇に百済から仏像が届いたと日本書紀は伝えています。
文献で記録されているなかで日本最古の仏像は飛鳥大仏として知られている丈六釈迦如来坐像ですが、この仏像が作られたのは609年というのが定説です。日本書紀は、この釈迦如来像の制作者を渡来人の子孫である「鞍作止利(くらつくり の とり)」であるとしています。
止利が制作した釈迦如来像と同じ特徴を持つ仏像の作り方は「止利様式」と呼ばれていますが、止利様式の仏像の特徴としては、次のようなものが挙げられます。
円筒形の面長な頭部
アーモンド形の目
アルカイックスマイル
大きな鼻
左右対称に近い構図
正面から観ることを前提に作成されているため、仏像に厚みがない
白鳳文化
それまで朝鮮半島を経由して入ってきていた大陸の文化は、遣隋使・遣唐使の派遣によって、中国からも直接入ってくるようになりました。
日本も巻き込まれた「白村江の戦い」の結果、大敗した百済は663年に滅亡。その後、4000人とも5000人とも言われる百済の人々が日本に亡命してきます。
その影響もあり、このころから仏像に変化が現れ始めます。
奈良時代前期「白鳳文化」の仏像は、角張った頭に豊かな頬、平坦な上半身など、まだ唐の影響を強く受けています。ただ、少しずつ日本風のアレンジが加えられていきます。
特に顔は、この時期の唐の仏像と比べると顔の作りが若々しいものが多い傾向にあります。また、頬がふっくらとしていて、少しずんぐりとした子どものような体型。衣は飛鳥時代のものと比べると体の線が見えるような薄い衣の仏像が増えていきます。
白鳳時代の仏像には、ほかに次のような特徴が挙げられます。
瞑想するかのような半眼
飛鳥時代と比較すると、側面や後ろから観られることを意識したようなつくり
わずかに動きが感じられる
鼻筋が通った顔
閉じられた口
衣が左右対称ではなくなり、自然な表現に
天平時代
奈良時代の後期、文化や美術史の区分で「天平時代」と呼ばれる時代になると、遣唐使を介した唐との交流により文化的にも著しい発展がみられます。その一方で、地震や干ばつなど自然災害による飢饉、天然痘の流行、藤原氏の台頭による内乱が起きるなど多くの社会不安を抱えていました。時の天皇である聖武天皇は政治に仏教精神を取り入れていきます。
この時代、社会不安を抱えていたことも影響しているのか、厳しいお顔をしている仏像が多くみられます。そして、より人間に近い写実的な仏像が増えていきます。写実的な仏像が増えたことには、唐から新しい素材と技法が入ってきたことが関係しています。
これまで使われていた木や銅ではなく、粘土や布、紙、漆など柔らかい素材を使うことで、繊細な表現が可能になり、それらの素材を使った乾漆像や塑像が作られ始めたのです。
天平時代の仏像には、次のような特徴があります。
少しふっくらした体型
筋肉の動きが自然
切れ長の眼
厳しい顔、への字に結ばれた口
薄く繊細な衣襞
平安時代
平安時代前期、仏教美術にふたつの変化が訪れます。
ひとつは一木造りの仏像、もうひとつは最澄や空海が唐から持ち帰った曼荼羅の流行です。
平安時代後期に遣唐使が廃止されたことで、それまで手本としていた唐から脱し、「定朝様(和様式)」の仏像が誕生します。日本人が「仏像」と言われたときに思い浮かべる、薄い衣を身にまとい、ふっくらとした穏やかな顔立ち…といったような仏像の姿が「定朝様」と呼ばれているものです。
また「和様式」を確立した仏師・定朝が「寄木造り」の技法を生み出しました。この時期、朝廷や藤原氏を始めとする貴族の要望に応えておだやかな雰囲気の仏像が増えていきます。
鎌倉時代
平安時代後期から現在に至るまで、仏師は定朝の時代と同じ比率と技法で仏像を制作しています。定朝様は、100年以上も仏像の流行をけん引していましたが、鎌倉時代になると、写実的で動きのある仏像が好まれるようになります。その仏像の制作を得意としたのが、運慶を中心とした慶派と呼ばれる仏師たちです。
鎌倉時代の仏像には、次のような特徴が挙げられます。
彫の深い顔
体つきや顔に張りがある
抑揚に富んだ動きのある姿
写実的な服
さいごに
現在、東京上野にある「東京国立博物館」で、『建立900年 特別展「中尊寺金色堂」』が開催されています。展示会場に一歩入ると、超高精細な8KCGによる金色堂と堂内空間が幅約7mの大型ディスプレイ上に原寸大! それだけでも圧倒されますが、その奥には金色に輝く仏像が全部で11体も展示されています。
普段は間近見ることの叶わない仏像を、ガラスケース越しとはいえ手の触れそうな距離で、しかも自分の眼の高さで見られる…という体験ができます。
仏像について調べていると、仏像の奥の深さにビックリします。これまで、「仏像」という物体としてしか認識していなかったのがもったいないと感じるほどです。
飛鳥大仏は釈迦如来像、鎌倉大仏は阿弥陀如来像で、作られた時期が650年ほど違います。これを機会に、さまざまな時代の仏像を見比べてみると面白いかもしれません。
(koedo事業部)
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展覧会名:建立 900 年 特別展「中尊寺金色堂」
会期:2024 年 1 月 23 日(火)~ 4 月 14 日(日)
会場:東京国立博物館 本館特別 5 室
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【参考】
建立900年 特別展「中尊寺金色堂」
奥州藤原氏の謎 中江克己 (歴史春秋社)
駒沢大学仏教学部教授が語る仏像鑑賞入門 村松哲文著(集英社親書)
完本 仏像のひみつ 山本勉著(朝日出版社)
一刀三礼、仏のかたち 仏師から見た日本仏像史 江里康慧(ミネルヴァ書房)
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