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山の危険と、それでも歩くことについて。

こんばんは!こえのもりです。
投稿2回目は「山の危険」の話をしようと思います。

わたしは昨年から山歩き始めた初心者で、運動も全くしてこなかった運動音痴である、という話を書きました。
皆さんの想像以上に運動が出来ず、心肺機能もとっても弱いのです。

なので、技量以上の危ない場所にはイキナリ行かないし、人に笑われたとしても撤退するし危険は回避する。ということを決めています。

実際、妙見山の渡渉で、わたしには渡れないと撤退したこともあります。めっちゃ悔しいし恥ずかしかったのですが。。笑

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実はそれ以外にも山に対して臆病になる理由があります。

それは、わたしの母の妹…叔母が、八ヶ岳で雪崩で他界しています。
わたしがまだ0歳、昭和57年3月のことでした。

山を歩き始めてからその事故について調べたのですが、殆ど情報は残っておらず、こちらのサイトに載っているのを見つけました。一番上のものです。

14名が巻き込まれ、内12人が亡くなった大きな事故でした。

わたしが幼い頃、慰霊祭に参加したことがあり、美濃戸口付近の山荘に泊まったことを覚えています。その他に残っている記憶は、きのこ狩りが楽しかったこと、そしてその先に聳える八ヶ岳の山々に圧倒され、ここから先へ進むという想像もできなかったこと。

「山を歩くと怖いことがある」
そんな風にずっと刷り込まれていた気もします。

だけど母はそれまでもそれからも山が好きで自然が好きで、だけれどもわたしは昨年までその楽しさを知らずにいました。

山に興味を持って実際歩き始めるまでも歩き始めてからも、遭難に関する本をいくつも読んでいます。恐怖をちゃんと知った上で歩きたい。誰にだって遭難する可能性はあることに、目を背けないでいたいのです。

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実は叔母の遭難事故について調べた時に、ヤマレコにこの日救助にあたってくださった一般の方の記録がありました。若い女性の遺体を担いで歩いたとのこと。もしかするとそれは叔母だったのかもしれません。

低山であれ、高山であれ、誰も遭難するだなんて思って歩かないですよね。そして誰も死ぬために山に登っていない。

遭難というと滑落など大きなことに聞こえますが、足を挫いても遭難に繋がります。単独だったら?それが誰も通らないルートだったら?雨が降り出したら?携帯が繋がらなかったら?

ほんの些細なことで人生が分岐していく様を、39年の人生の中で見てきたし、経験してきました。「絶対大丈夫」など存在しないことを、何度も思い返すようにしています。

低山ではよく分からない分岐や、不明瞭な踏み跡などが多く、地図を見てルートを確認しても不安を覚えることがよくあります。
雪崩でなくても道迷いであったり、動物との事故であったり、不意なことはたくさん起きるのが山です。

その相容れない自然と人間の境界線や恐怖ですら愛しながら、わたしは山を歩いていきたい。自然はわたしたちを包んでくれるわけではなく、わたしたちは異物なんだと思いながらも、あの山でしか味わえない時間、空気、全てに魅了されてやまないのです。

山が好きな人を増やしたい!という気持ちとともに、自分でできる限りの事前準備をし、そして安全を確保して山に向かうこと、それでも何が起こるか分からないのが山だということも伝えていきたいと考え、このnoteを書いています。

全てを天秤にかけても山に登ってしまうほど、山を歩くことは素晴らしいことです。初心者のわたしですが、そんなわたしでも言えることがあるなあと、筆を取りました。

初心者から見たアプリの使い方や使い勝手、登山届の出し方なんかもいずれ書いて行けたらいいなあと思っております。

みんなで笑って家に帰りましょう。

それが何より大切なことだと思っています。

読んでくれてありがとうございます!!

KoE no MoRi -こえのもり-

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